エピファニアとコンサート | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

 

すっかり忘れていたが、今日は「エピファニア」(主のご公現)の祝日でお休みだった。

 

”エピファニア”とは、幼子イエスへの東方三博士の訪問や、キリストの洗礼、カナの婚礼における最初の奇跡など、キリストが人々の前に公に姿を現されたことを記念し、イエスを通して神の栄光がすべての人々に現れたことを祝う。

http://ameblo.jp/sofiamilano/entry-11443006015.html

 

ところで、今朝のヴァチカンでのごミサでは、メシアに会いに東方からやって来た占星術の学者たちの言葉を取り上げながら、三博士の訪問のエピソードにある、「見る」そして「拝む」という2つの態度に視点を向けられた。

 

「博士たちは星を見て行動を起こした」と述べたパパ様は、その星は特別な光り方をしていたわけでも、また彼らがそれを発見する特殊な才能をもっていたわけでもない、それは博士たちが心に望みを抱き、天のしるしを見る、開かれた心をもっていたからであると話された。パパ様はこうした博士たちの態度に、「信じる者」「神への郷愁を感じる人」の姿を見出された。

 

そして、この「神への郷愁」こそが、「救い主を腕に抱くまでは決して死なない」と確信していた老人シメオンを毎日神殿へと向かわせたのであり、この郷愁が「放蕩息子」を自堕落な生活から抜け出させ、父親の抱擁のもとに帰したと説かれた。「『神への郷愁』は、わたしたちをいつもの囲いから引き出し、迎合的な態度を捨てさせ、熱望し求めるその変化に向かってわたしたちを駆り立てます。」

 

「神への郷愁を感じる人は、信仰に励まされ、この博士たちのように、辺境へ、まだ福音の届かない場所へと向かい、そこに神を探し求めに行くのです。」  

 

また、共同祈願では、エスコラピアス修道女会のSr.高木が共同祈願を日本語で祈られた。

 

 

「ベツレヘムの洞窟から溢れ出た命の知らせが、正義と平和の新しい歩みを励ましてくれますように。」非常に美しい言葉だ。光のような命の知らせ。私たちは、正義と平和のために、この良い知らせをもたらせなくてはならない。

 

午後からは、前日お知らせした、コンサートに出かけてきた。サンタ・マリア・プレッソ・サン・チェルソ教会は、サン・チェルソ教会の隣にあるサンタ・マリア・デイ・ミラコリ教会ということ。

 

 

壮麗なファサードは白い大理石で造られているが、レンガ造りが印象的な教会。16世紀の初頭に建てられた教会で、見所は教会内のフレスコ画「奇跡のマドンナ」。17世紀から18世紀にかけてミラノではペストが大流行し(ピーク時は1日約3500人が死亡していたと言う。)マドンナに祈り続け、ペストが治ったとか。

 

コンサートの方は、日本歌曲もイタリア歌曲も素晴らしかった。けれど、やはり福島の聖歌隊とイタリアの聖歌隊が一緒になり歌った、シューベルトのミサ曲、そしてヴィヴァルディのマニフィカートは、声の一致、ハーモニーが天に昇るごとく荘厳で、また日本人のソプラノも透き通るような美しい声で、誰もがうっとりとしてしまう一時だった。

 

アンコールは大好きな"Ave Verum Corpus"。この曲は聖体の秘跡に対する深い信仰がベースとなっている中世の詩であるが、歌詞を知れば知るほど、信者としてご聖体を頂くことの意義を深く考えさせられる一曲。そして、カトリック信者で良かったと思う曲。

 

 

コンサートの後に、祭壇脇の”奇跡の聖母”を拝みに行った。そして、主のご公現の象徴である、幼子イエスに思わず触れてみた。

 

 

いと高き天には、神に栄光。

地には、み心にかなう人々に平和。

 

聖書には、幼きイエスには産着が包まれているというが、プレセピオにみるイエスはなぜか裸が多い。苦笑

 

本来、イタリアの冬休みは今日まで。そして翌日から学校が始まるが、今年は週末とぶつかり2日長い冬休み。さあ、来週から私の日常が始まる...。

 

 

http://ameblo.jp/sofiamilano/entry-12235395022.html