昨夜は、何年ぶりか家族5人で夕食を共にし、私は夜の10時半に聖歌隊の練習があるので教会へ出かけた。11時15分から祈りが行われ、深夜ミサが12時から行われた。クリスマスミサは割に早いので、1時には終了。別室に移動して、皆でパネットーネヤパンドーロをスプマンテで頂き、お祝いをした。

プレセピオにもバンビーノ•ジェズー、幼いイエスが飾られた。画像は、主任司祭の私物なんだそうだが、ボルツァーノ産でなんとかという木で作ったものなんだそうだ。とても穏やかな優しい感じ。
帰宅してすぐに眠りについた。今朝はとても穏やかな気持ちで朝を迎えた。
ところで、先日FBで長女がとても心に響く文章を紹介していた。

一人でいることを学ぶ必要がある。一人でいると他者とい ることを学ぶことができる。あなたにはそれが必要。学校で一時間、孤独に耐えることを学ぶ教えが必要だ。
ご近所に未亡人のおばあちゃんが多く、今年の春何気に、「孤独」に関して考察してみた。http://ameblo.jp/sofiamilano/entry-12144819008.html
>「孤立」は、自らが他人とのかかわりを断つところに生じるが、「孤独」は、むしろ他人との関わりの中で感じとられる。(上記)未亡人のお近所さんは、今回のような(クリスマスや)復活祭休みなど、街が静かになったり、けれど、あるところでは、家族が集う時期だと思うほど、余計に「自分は一人」という寂しさを感じてしまうようで、嫌だ、と言っていた。
また逆に、以前、ローマにいらした日本人神父の方が、時にナポリの下町の雑踏の中に敢えて行きたくなる、とおっしゃっており、ほう...と思ったことがある。私など、普段慌ただしい生活をしていると、海や山の中に篭りたくなるが(でも1日2日が限界であろう)、逆に人間味を感じるために雑踏へ行きたくなるケースもあるのだ、と改めて知った。
人間は、孤独な人を慰めるためには自分が孤独を味わってみないとできないと思う。まさに、長女が紹介したフレーズそのものだ。
イエスが生まれる時、どこの宿舎にも断られ、静かな厩でお生まれになられたイエス。しかも、最後は十字架上で宙づりのままの姿でお亡くなりになられた。まさに、「宿無し」の一生を貫かれた。だからこそ、イエスは、私たちの心の中に住まわれたいと切にねがわれたのだなと思う。それはご自分のためではなく、寂しい人のために。
寂しさは愛するためにあるのだと、以前大好きな渡辺シスターがおっしゃっていた。自分が味わっている孤独さから逃げることなく、それをおりまで飲み干す時にのみ、「私は世の終わりまで、いつもあたなと共にいる」と約束された主の愛が、心に深く染み渡る。
慌しく、騒々しいクリスマスではなく、静けさの中で、孤独を考察し、お互いが赦し合い、微笑みを通してやさしくしあって生きていきたいと思う。そうやって人間味が深まるのではないだろうか。
闇の中に置かれ、それまで知らなかった様々な「明るさ」がありがたく感じられるクリスマス。それまで「当たり前」だったことが、光輝いてくる。
これぞ、クリスマスの喜び。クリスマスの恵。
http://ameblo.jp/sofiamilano/entry-12109960544.html