ローマ典礼も待降節に入り、これで世界中が、クリスマスを待つ季節となった。
月曜日の午前中は聖書の研究会がある。会場となっている幼きマリア会•マリアバンビーナの修道院は、世界中の本部でもあるので、ミサはローマ典礼で行われているという。前日の主日の典礼を読み、イタリア人シスターの日本語による解説と、前日ヴァチカンで行われたパパ様のお説教やアンジェラス•お告げの祈りも紹介される。
待降節と共に、典礼暦年(教会カレンダー)はA年に突入。A年ではマタイによる福音書を読んでいく。ミラノのアンブロジアーノ典礼もこの待降節はマタイから始まったが、第3週はルカだった。カレンダーを見ると、必ずしもマタイではない。あれっなんでだったっけ? 今更聞けないことが沢山ある。苦笑
ところで、「待降節」は「主の到来」であるが、パウロの書簡を読むと、当時は世の終わりが近いと考えられていたことがわかる。”あなた方が眠りから覚めるべき時が来ています。”というメッセージは、いろいろな意味で、この現在に至っても言えることだろう。
話は変わるが、毎朝家中で目覚ましがなるが、子供達は起きてこない。「起きなさい」というと「起きているよ」というけれど、ベッドから出て来ない。目が開いても、ベッドから出て来なければ目が覚めた内には入らないの!と怒る。そして、目に見えていても、実際見えていないものが多い生活。このぼんやりした目は、意識次第であろう。
「意識」は「全体を見る目」を養うもの。物事を鵜呑みにするのではなく、批判的に検討していくことも大切。人間の尊厳を保ち、他者を尊重し、協力、連帯して社会正義を実現するために、今自分の周りで、世界で、何が起こっているのか、その出来事に関心を持ち続けることが大切だ。その積み重ねによって、いくつもの問題点や課題が見えてくるもの。
日々の暮らしの中で、当たり前と思っていることが、亡くなった時、奪われた時、初めて人は「日常」の有り難さを実感する。
どんな心で生活するか、ぼんやりではなく目を覚まし、特にキリスト者である私たちは、「信仰の目」を持って歩むことが大切。心を整えて歩みたい。
こちらは、先週画像がアップされたアメリカのアカペラグループ "Home Free"の”Amazing Grace"。日本語歌詞を読み、また美しい歌声に心が洗われる。
