挨拶 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

 

先日理解しがたい日本の記事を読んだ。

https://twitter.com/mitatowa/status/794488095374573568/photo/1

 

あるマンションの住民総会での話。

>知らない人に挨拶をされたら逃げるように教えている、マンション内では挨拶をしないよう...

>挨拶をしても返ってこなかった。気分が悪かった。お互い辞めましょう。

 

悲しいなあ。日本。

もちろん、イタリアでも何年顔を合わせていても、絶対自分から挨拶をしてこない人もいる。確かに、挨拶をしても返ってこなければ気分は悪い。勇気を出して、自分からしても、次に会うときはまた同じ...。でもそこで諦めたらおしまいなのでは?

 

人は、物質的に豊かな世の中になると、本来大切なことを忘れてしまうのではないだろうか?

 

私は、家族や友人、知人、同僚以外だったら、軽く頭を下げたり、微笑むだけでも良いと思うけれど、日本で微笑んだら、気持ち悪いと言われるだろうな。笑

 

以前、在伊歴の長い日本人のおばちゃんに声を出して挨拶をしたにも係わらず、「あなた、わたくしを無視したでしょう?」と言いがかりをつけられたことがある。もちろん、挨拶はした。恐れ多くも無視などできるはずもない大御所の方だ。私も若かったこともあるが、「いえ、ご挨拶差し上げました。」と言っても「いえ、してないわよ。」「しました。」の繰り返し。

 

今でも恐れ多く、遠くからでも彼女を見かけたらすぐにかけより挨拶をする。笑 今でこそ笑い話であるが、教訓としては、声を出しても小さすぎて相手に聞こえなかったら意味がないというか、しなかったと同様に思う人もいるということ。

 

私は気分が落ち込んだとき、敢えてメルカートに出かける。大抵十中八九知り合いに会うから、「チャオ!」という一言だけでも元気をもらえることがある。大抵は、その度に「元気だった?」「最近どう?」と話し、愚痴は言わないものの、逆に人の愚痴を聞いたり、世間話を聞くこともあるが、やはり人と触れ合うことはわずらわしいこともあるが、それがなければ人は成長できない。

 

言ったらキリがないけれど、挨拶をやめましょう、なんてなんだかな...と思う。挨拶の時点でこれだから、日本で「微笑む」行為は上記に書いたが、気持ち悪るがられるだろうが、言葉でなくても、癒されることもあるのだ。

 

「微笑み」 

ほほえみは、お金を払う必要のない安いものだが、 
相手にとっては非常な価値を持つ。


ほほえまれた者を豊かにしながら、ほほえんだ人は何も失わない。 

瞬間的に消えるが、記憶には永久にとどまる。


お金があっても、ほほえみなしには貧しく、 
貧しくても、ほほえみのある家は豊かだ。


ほほえみは、家庭に平和を生み出し、社会を明るく善意に満ちたものにし、 
二人の間に友情をはぐくむ。 


疲れた者には休息を与え、失望する者には光となり、 
いろいろな心配に思い病んでいる人には解毒剤の役割を果たす。 


しかも買うことができないもの 
頼んで得られないもの 
借りられもしない代わりに盗まれないもの 


もし、あなたが誰かに期待したほほえみが得られないなら、 
不愉快になる代わりに、あなたの方からほほえみかけてごらんなさい。


実際、ほほえみを忘れた人ほど、 
それを必要としている人はいないのだから。 (byシスター渡辺和子)

 

 

心が頑なになって、乾いた人には潤いが必要。

挨拶や微笑み一つで人生が変わることもある。損得勘定ではないが、進んで「損」をすることによって生み出されることもある。

 

まずは、自分からはじめてみようよ。