刑務所訪問 〜 その2 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

 

一回目のミサが終了し、人員点呼を受け、一度入り口まで戻る。再び人員点呼。そして新たに違う出口に向かう。官舎の外は、霧が出ていた。

 

看守職員や訪ねてきた人たちが入ることのできるバールだった。冬時間に突入し、1時間はゆっくり眠れたとはいえ、まともに朝食も食べずに家を出た。少し胃にものを入れたい。ブリオッシュ(いわゆるクロワッサン)とカプチーノを飲んだ。2つで1.7ユーロだったから一般のバールよりも格安だ。トイレに行こうとすると既に内輪のメンバーだけですごい列になっており、看守の一人がもう一つのトイレがあるよ、といって正門近くのトイレに連れて行ってくれたが、そこで、別の看守にグループから離れては行けない、と注意され、再びバール近くのトイレに戻る。いわゆるトルコ式(和式)のトイレでトイレットペーパーもなく、また扉もぴったりとは閉まらない酷いものだった。

 

建物もあちこちが壊れ、かなり酷い。そういえば、私の霊的な母であるシスターがそこに収容されていた受刑者と書簡の行き来があり、何度か読ませていただいたことがある。まだ刑務所から出るには時間がかかるし、外国人のため身寄りもなく、将来的にも帰国できないようだが、心が満たされている喜びに満ちた手紙であった。けれど、重罪ではなかったにもかかわらず昨年サルデーニャ島の新しい刑務所に移送されたことを思い出した。新しいところが良いか、それとも古くてもミラノの中心地の方が良いのか?受刑者たちにはあまり関係ないことなのだろうか。

 

それから女性の受刑者のミサが始まると言って、またまた列になって正門に呼び戻された。またまた人員点呼。今度は違う棟に入る。壁の色がいきなり黄色になり少し明るい感じがした。これから各拘置所の前を通りますが、中を覗き込まないように。前だけを見て歩くように、と忠告を受けた。歩いて進んでいくと、給食室でもあるのだろうか?何かいい匂いがしてきた。これってリゾットだよね?と友人。廊下の奥にお御堂があった。

 

修道院の一角にあるようなお御堂で両脇に長椅子が十数列に並んでいた。正面には祭壇があり、壁画、そして十字架が祀られており、男性用のお御堂とは全く異なるものだった。すでに女性の受刑者たちは、椅子に座っていた。私たちを不思議そうな顔で見ていたが、苦しみや絶望感をあらわにした人もいれば、普通ににこにこしている人もいたり、「チャオ!」と言いながら笑顔で入ってくる女性もいた。男性に比べると外国人も少なかったが、男性に比べかなり受刑者同士の接触も自由のように見えた。受刑者は皆決まった服を着せられているのか?と思ったが、これまた全くの自由のようだ。

 

余談だが、イタリアは1944年には戦犯を含めすべての死刑が法律的に廃止されている。さすがカトリックの国である。そういう面では日本とは全く違う。たとえ凶悪犯であろうとも、死刑は個人的には絶対反対である。またまた余談だが、2010年に麻薬所持で逮捕された日本人男女は郊外の刑務所に収容されているようだ。

 

司祭がやってくるまで、私たちは聖歌の練習をした。私たちの聖歌隊を指導する司祭は30歳とまだ若い。しかもコンセルヴァトーレの学生でもある。ギターの伴奏にあわせ聖歌を歌ったが、まだ時間があったので、受刑者たちに、何か歌いたい曲は?と質問をすると、「福音後の歌」(これはアンブロジアーノ典礼特有か?)をお願いします。「拝領の歌をお願いします。」などと自由にリクエストが入った。

 

ミサが始まり、気付いたのは、女性のミサでは聖書朗読や幾つかの奉仕が受刑者たちによってなされていた。そして、当日のアンブロジアーノ典礼の第2の福音書はマタイ22章1-14節「王子の結婚披露宴」の部分であったが、なぜか男性のミサでも女性のミサでも、司式司祭は別であったにもかかわらず”giustizia"つまり「審判」に関するお説教であった。

 

 

ついでながら、刑務所の入り口には”ministero grazia e giustizia "とある。現在はministero giustiziaであるが、正門の表札は昔のまま。いわゆる「法務省」のことを指すが、Giustizia とは、正義、判決、審判という意味がある。刑務所、受刑者にとっての正義、判決といえば、「法律」が示すもの。けれど、本来人間にとって判決、審判とはなんだろう?

 

犯罪を犯した人間だけが、審判を受けなければならないのだろうか?「刑務所にいる人間だけが罪人ではありません。人間自体皆、罪人なのです。」と司祭。そして決してキリスト者のみが罪を赦され、天国に行ける、というわけではない。天に赦しを仰ぎ、心を開いて痛快し、悔い改める。それが永遠の命の第一歩だというようなことを言っていた。非常にわかりやすく優しい言葉で、話してくださり、心が洗われるようだった。知り合いの女性が書いたという手紙が紹介されたが、間違ったことを書いてはいけないし、当日のお説教の原稿を是非読ませて頂きたいとお願いしたところ、ではメールで転送しましょう、と言ってくださったので、また改めて紹介したいと思う。

 

また2つのミサでの共通点は、「キリストによって、キリストと共に、キリストの内に...」という私の好きな典文の結びがあるのだが、通常は司祭が唱え、私は一人でぶつぶつと唱えているが、男性も女性のミサでもそれを全員で唱えたこと。これは美しいと思った。

 

ところで、パパ様は海外へ司牧訪問される度、現地の刑務所を訪問されておられる。そしてまた、刑務所はしばしば私たちの社会の暗い闇のように思われているが、刑務所は実際には社会の状態を映し出す一つの「症状」であるとおっしゃる。有罪判決後の苦しみや絶望、受刑生活の不安や孤独など、受刑者たち、特に女性や一部の男性から感じるものがあった。罪を犯した人に対し、自業自得だ、という人も多いことだろう。けれど、人間は回心すると思いたい。過去に囚われた生き方では、前に進めない。未来や明日の扉を開くべき。物事は変わっていくと信じたい。

 

とはいえ、イタリアには次から次へと移民や難民がやってくるが、受け入れる「寛大」なイメージの裏には、彼らを排除しようとする「切り捨て」の空気さえもある。たとえ、受刑者たちが更生をしても、塀の外へ出た時、つまり社会へ戻る際、切り捨ての空気が彼らを再び孤独に追いやり、希望までも奪ってしまっては前へ進めない。

 

最近パパ様も一般謁見でお話しされたことだが、「無関心という病に冒された不幸な世界にあって、慈善のわざは最良の対抗手段になる」という。それは決してとてつもない努力をしたり、人に見せたりする必要はない。

 

ミサが終わった後、お御堂を出て行くと、残っていた受刑者たちが、笑顔で挨拶をしてくれた。先に、部屋に戻った人たちも鉄格子越しに手を振ってきたり、多くの人がタバコを吸っており、あまりの自由さに驚いた。

 

とはいえ、普段味わえないごミサに与ることができて、考えさせられることも多かったが、心が洗われる思いだった。また機会があれば是非刑務所でのごミサに与りたいと思う。

 

神に感謝。

 

 

 

http://www.chiesadimilano.it/news/chiesa-diocesi/a-san-vittore-detenuti-in-cammino-1.123977

http://ameblo.jp/sofiamilano/entry-12214810420.html