いのち | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。



昨日葬儀に参列した。
隣のアパートに住む96歳のおばあさんの葬儀だった。葬儀で初めて彼女の名前を知った。「メルチェーデス」すごい名前だ。ベンツじゃないか!

一人娘が常におばあさんの面倒を見ていた。40歳の時の子供なのよ、と言っていたので、私よりもずっと年上だが、独身で大学の美術史の教授なんだそうだ。気づいた時は、いつもおばあさんは車椅子だったが、雨や寒い日でない限りは必ずミサに参列されていた。
「体調はどうですか?」と聞くと「悪くないですよ。神様に感謝しないとね。」常に<神様に感謝>とおっしゃっていた。静かに微笑む姿が印象的だった。

葬儀ミサでは、「ハレルヤ」を歌う。主に賛美。また、お説教では、「彼女は生の歩みは止めてしまわれたが、信仰を証した人生でおられた」と語られていた。最後の数日、病院に入院されていたようだが、病気というよりは老衰。天から与えられた命を可能な限り生き続け、ある定の日にその命を天に返された。まさに天寿を全うされ、平穏。喜び。そういった言葉が繰り返されていた。お嬢さんも来るべき時が来た、という気持ちだったのか、寂しそうだったけれど、笑顔で参列者に感謝の気持ちを表されていた。

日本では、儀礼的な弔問などをなくし、家族中心で行う葬儀スタイルが増えているという。また無宗教で葬儀、と言っても便宜的にお坊さんを呼ぶこともあるようだが、信仰していないのにお布施を払うのは嫌、宗教は胡散臭い、という考え方の方も多いようで、音楽葬や葬儀司会やナレーション、パネル、動画などをいれたMCベースの葬儀も増えているという。

確かに無宗教の人には、宗教は胡散臭く感じるかもしれない。けれど、これだけは「神に出会う」という体験がない限り説明のしようがないのだけれど、「死」は悲しい。けれど、神様の元で憩えるのならば、それは安心でもある。

裸で生まれた私たちにとって、いただいた命だけが尊いもの。学歴、地位、身分、財産などは、この世においてのみ通用する飾り物。この世の成功だけを目的にしている人生であれば、それらにも価値はあるのだろうが、主のみ前では「いかに命を高めたか」だけが問われるのではないだろうか。

おばあさんは、ろうそくのように周りに光を与えながら、静かに消えていかれた。私たちの命もかぎりなく無条件に与えながら、見返りを期待しない人生でありたいものだと思う。

ローマ教区聖歌隊による

Preferisco il Paradiso”

https://www.youtube.com/watch?v=9xMdMzsAGEg