礼節 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで33年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。



ガリガリ君の値上げを謝罪するCMがイタリアでも話題になっている。そして、面白いことに、「ありがとう」同様「ごめんなさい」も頭をさげるの?と不思議がるイタリア人の友人がいた。

日本に生まれ、日本に育ち、学校や社会に入り込めば、礼儀作法、特にどういった時に、頭をさげるか?自然に身につくことかもしれないが、在外邦人としては親がきちんと教えないとなかなか身につかないものである。
日本の学校の式典などにおける児童生徒の態度(立ったり、座ったり、お辞儀するタイミング等)を見たら、イタリア人も驚くことだろう。その点、補習校だと、同じようにはならない。もちろん練習をすれば多少よくなるが、親自体が、式典中おしゃべりをしていたり、ガムを噛んでいたりする人もいるのだからたまげてしまう。

ところで、空手などの「道」がつくものは、きちんと挨拶、礼をすることを教えるが、意外に道場の外に出てしまうと忘れてしまう人も多いから、それでは本末転倒である。これまた、習いに来ている門下生の保護者とて同様。長男は、何度注意しても師範に対しタメ口をたたくし(!)、次男はぼそぼそクネクネ、師範の目さえ見れない。なんだろうなあ...

礼儀の正しさは、本来日本人の美徳でもあった。

礼儀とは「礼」と「儀」。また、人の踏み行うべき礼の道である、とある。そしてどこへ行っても、散らかさない。騒がない。人に迷惑をかけない。それは相手を慕い、敬うからこそ自ずと出てくるもの。そのような礼儀が自然と出てくる大人にならないと、成熟した社会は育たないだろう。

「武士道」を書かれた新渡戸稲造先生は、『礼儀は最高の形にまで高められると、それはほとんど愛に迫る。礼儀は「礼は寛容にして慈悲あり、礼は妬まず、礼は誇らず、驕らず、非礼を行わず、己の利を求めず、憤らず、人の悪を思わず」礼儀はせいぜい立居振舞に優雅さを加えるにすぎないと言う人もいるが、それがもたらす大きな益を否定出来ない。礼儀の影響はその程度には止まらない。礼節は仁愛と謙遜の心から発する者であり、他人に寄せる深い心根に発する優しい思いやりによって動くものである。したがって礼節は常に同情の優美なる表現である。礼の我に要求するところは、悲しむ者と共に悲しみ、喜ぶ者と共に喜ぶことである。』とおっしゃる。「礼は寛容にして...」の部分の「礼は」を「愛は」に書き換えれば、新約聖書のコリント人の手紙だ!笑 何れにしても、相手に対して思いやる心が礼の基本である。

昨年度のitamaの最終日では、あるスリランカ人の生徒が、担任、会長、各ボランティアに対し、頭に両手を合わせ一礼し、一人一人の足元に膝間付き、手を合わせて頭を地につけて挨拶をした。敬意の表明と受け、感動したものだ。

西洋での挨拶は、握手がメインだし、ミサの間でも「平和の挨拶」は握手を交わすが、やはり日本では両手を合わせ、軽く頭をさげる。どちらがいい悪いではなく、やはり文化背景は守りたいが、頭を軽く下げ、また声に出して挨拶をするのは、する方も、される方も気持ちがいい。

ミラノの街中、または近場を歩いていて、向こうから来る人は、日本人かな?中国人かなあ?と思うことがある。(お互い様か!)基本的には声を出して挨拶をするが、初めから目を合わせないようにしている人も多い。軽く頭を下げても、知らぬふりをして通り過ぎていく。ちっ。相手が駐在員だったりすると、あっあの会社終わったな!と思う。妻とて同様。

「礼」を時に即し、場合に応じて、自分の行動ができるように、弁えることが「節」。「礼節」を知って初めて一人前の人間と言えるのだろう。



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