所属する空手の教室には4つの空手道訓がある。
以前、師範は「空手は...」というのを「自分は...」と置き換えてみようとおっしゃっていた。また、最近の師範のブログでも、非常に興味深いことをおっしゃっていた。
>「武道」は「禅」と同じと捉えるなら、試合で勝って嬉しいとか負けて悔しいとかといったような心の「揺れ」は厳に戒めるべきではなかろうか。そこで、私は大会に出るということは座禅を組んだ時のように、一切他事を考えず心を空っぽにして雑念が湧いてもそれに執着せず水が流れるがごとく心を綺麗な状態に保ちながら無心で型を打つ。
ちなみに、師範もご子息も試合に負けたとしても無心で型を打つことができたなら表情は緩むそうだが、逆に雑念を持ったまま試合に臨むと、たとえ試合に勝っても自分に腹を立てている表情になってしまうという。奥が深いんだなあ。空手が面白くて面白くてたまらない、という熱心なイタリア人の門下生は多く、師範がブログやその他の誌面でどんなことを書いているの?どういう考えなの?とよく聞かれるが、さすがに日本の文化や国民性などの背景を交えながら、それをイタリア語で説明するのは難しい。私だって全てを理解しているわけじゃないだろうし。だからといって、私だけ、そうか...そういうものなんだ...と深く感動したり、納得した!と話すと, ずるい!!と思われるようだ。笑
実は今週末に「春の陣」なる大会が行われる。個人型、ペア型、組手があり、年齢によってカテゴリーが分かれる。個人型では、幸か不幸か私のカテゴリーに長男がいるが、まあ親子対決になることは有り得ないだろう。組手にかけている長男は、対戦相手が誰なのか、やたら気にかけ、トーナメント内容を知った途端に「よしっ」ってどういう意味かなあ...常に根拠のない自信。苦笑いどころか大笑いしてしまったが、師範の話聞いてるかな...甘いんだよ、何事も!と話した。
基本の練習は、無心でいることが多いが、いざ一人や二人で大勢の前で型を打つとなると, 動きを忘れないか心配になるし、注意されがちのポイントを意識しすぎて、結局、どこかを端折ってしまったりする。何事にも動じない精神力、つまり胆力は結局稽古なしでは育たない。
ところで、「禅」は大きく分けて「天台禅」と「達磨禅」に、「達磨禅」は「南禅」と「北禅」に分類され、達磨は「禅」と「拳」を伝えたと言われている。「拳禅一如」という言葉は、「拳」は肉体を意味し、「禅」は精神を意味しているという。体と心は別々のものではないので、偏りなく修養させることで自己を見つめ、自己にある可能性を引き出すことができるという。
つまり、上記空手道訓2番が言っているように、空手の動きは「動」であるが、己を見つめる行為は「静」であり、この「動」と「静」が合わさって自分自身、人生を生きて行くために、技を磨き心を磨く。また、3番目は、自分自身に打ち勝つ、自分の心に打ち勝つ。自分勝手なエゴイストは、自分自身に支配されている、つまりその時点で負けていることと同じ。それが「空手」だというのだ。
負けず嫌いな私は、人に負けるのが嫌いなのではなく、自分自身に負けるのが何よりも嫌い。自分に課した目標、約束、守りごと、これを目の前にして目をつぶりたくない。
子曰く、「己に克ちて礼に復るを仁と為す。一日己に克ちて礼に復れば、天下仁に帰す。仁を為すは己に由る、而して人に由らんや。」
自分に打ち勝って礼に立ち返ろうとすることが仁である。一日自分に打ち勝って礼に立ち返ることをすれば、世の中はその人の人徳に帰伏するであろう。仁を実践することは自分(の振る舞い)によるのであって、どうして他人に頼るものであろうか、いやそうではない。
う~ん、奥が深~い。
