今日は復活祭一週間後の第2主日。「神の慈しみの主日」と呼ばれ、ローマ典礼もアンブロジアーノ典礼も福音朗読はヨハネ20章19-31節と一致していた。
イエスが復活したその日、すなわち週の初めの日の夕方に、復活したイエスが弟子たちの真ん中に来て立ち、平和を与え、聖霊を授ける。弟子たちの中でトマスだけが疑いを示す。その八日の後、つまり次の週の初めの日にまた、イエスが弟子たちの中に現れ、そしてそのトマスと対話する。経過や言葉の一つひとつが、ミサを通してのキリストと我々の交わりの諸相を暗示し、我々の思いのひだにまで触れてくる。味わい深い箇所である。
なかでも、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」とトマスはいい、「見ないのに信じる人は、幸いである」とイエスが対応。語りかけは、美術でもよく描かれ、一般に「トマスの疑い」ないし「トマスの不信」という題で示されている。
私の教区教会では、復活祭1週間後の今日、毎年、「新しい命」としてのフェスタが行われる。ミサでは、隣接する昨年まで次男が通っていたカトリックの学校の幼稚園生と小学生の低学年が聖歌隊と一緒に歌を歌う。私の横にも、天使のような可愛い幼稚園生の女の子が座り、ミサ中に「私の服可愛いでしょ?」と声をかけてきて、聖歌を歌うたび「ベッラ~」とうっとりするように独り言をいう。しまいには、「あと何分?」ミサでは立ったり座ったりするので「あとどれくらいで座れるの?」などと声をかけてくるが、決して鬱陶しいものではなく微笑ましいものであった。
ミサは、私たちがキリストと共に”新しい命”を与るために集まる。聖書はいのちをただ単に生物学的に見るのではなく、神とのつながりの中に見る。私たちの命は神によって生かされている。これが聖書の根本的な見方だという。「復活」は、神によって生かされている命が、イエスという方の中に実現していた、イエスの命は死を超えて100%神によって生きている命そのものになった、ということを表す信仰。
今朝のパパ様のツイートは、「慈しみ。神と人を繋ぎ、常に愛されているという希望に心を開く道です。」とあった。
神と人を結ぶ。縦と横...それは自然に十字架を描く。ミサ中、お子ちゃまたちと手をつないで「主の祈り」を唱えた。イエスが生きている間ずっと持ち続けていった神とのつながりは、死によって断ち切られるものではなく、死を超えて完成した。それをキリスト教では「復活」という言葉で表そうとしている。パウロが言ったように、イエスの復活がなければ私たちの信仰は虚しいものになってしまうだろう。
画像はカラヴァッジョの「トマスの懐疑」。私もトマスのようにイエスの傷に指をいれて確認しないと納得、安心できないものがある。あ~まだまだ未熟。
自分の弱さや限界があることを認め、生まれ変わり、新たに生きること。これが大切なんだなあ。
