先日、友人の洗礼式に出席した際の司式司祭のお説教は「引きこもり」の話から始まった。
イタリアでは、「hikikomori」という言葉は、「日本語」という枠を超え既に定着した言葉で、雑誌のコラムや何かセミナーでのテーマになることさえある。
その「引きこもり」。厚生労働省のホームページを見ると、定義として、様々な要因の結果として、社会的参加(義務教育を含む就学、非常勤職員を含む就労、家庭外での交遊)を回避し、原則的には6か 月以上にわたって概ね家庭にとどまり続けている状態(他者と交わらない形での外出をしていてもよい)を示す現象概念。(※ ひきこもりは、原則として統合失調症の陽性あるいは陰性症状に基づくひきこもり状態とは一線を画した非精神症性の現象とするが、実際 には確定診断がなされる前の統合失調症が含まれている可能性は低くない。「ひきこもりの評価・支援に関するガイドライン」より)とある。
上記、お説教では、「視野を広く、殻に閉じこもらないように生きよう」というような内容だったが、それが自分で分かっていれば、はじめからなんとか防ぐこともできるだろう。それができなくなってしまうから問題なのだ。
そして、「引きこもり」同様社会問題として高齢者の「孤立無援」という現象がある。
教会やご近所を見回すと、お年寄りの未亡人が多い。まだ孫がいたりすれば、孫の世話なり、外に出て、人に触れることも多いが、そうでない場合、高齢者になってからの一人暮らしの辛さや切なさは計り知れないものがあるように思われる。
私は、地元教会では唯一の日本人だし、割合、ミサや祈りの会などに顔を出しているので、私のことを知っているという方は多い。そして、何かの拍子で話すようになると、やはり未亡人で(高齢者)で、健康のためにも歩くことが必要だし、教会に行っては、いろいろな人のために祈るのよ、というご婦人が多いこと!そして、初めて私もそういうった方々の目に見えない祈りに支えられていることに気付けるのだ。
近所に、ここ数年にご主人を亡くされたご婦人が数人いるが、あるお二人が、会うたびに「辛くて」「寂しくて」とおっしゃる。お二人とも4, 50歳代のお子さんはお持ちだが、未婚であったり、パートナーはいても、子供はいないという方々。お一人は、近所の病院でボランティアをするようになり、たまに友人の犬を預かり散歩させている、ということもあるようで、他人様とはいえ、ちょっと安心するものがある。
が、もう一方は、道で私を見かけようものなら、私が追いつくまで待っていらっしゃる。ああ、話し相手がほしいのだなあと感じる。やはり「悲しい」「辛い」などと思いを吐かれるが、残りの人生、孤独の恐怖にさいなまれるようだ。
日本人には、「他人に迷惑をかけてはいけない」という美徳があり、これを守ろうとする真面目な人ほど「孤立無援」の恐怖心から逃れられないところに残酷な現実がある。私の両親はまだ健在であるが、いつか一人になってしまう時、それを思うと心配になってしまう。そして、それは日本人だけに限る話ではない。
日本人には、「他人に迷惑をかけてはいけない」という美徳があり、これを守ろうとする真面目な人ほど「孤立無援」の恐怖心から逃れられないところに残酷な現実がある。私の両親はまだ健在であるが、いつか一人になってしまう時、それを思うと心配になってしまう。そして、それは日本人だけに限る話ではない。
「孤立」は、自らが他人とのかかわりを断つところに生じるが、「孤独」は、むしろ他人との関わりの中で感じとられる。上記未亡人のお近所さんは、今回のような復活祭休みなど、街が静かになったり、けれど、あるところでは、家族が集う時期だと思うほど、余計に「自分は一人」という寂しさを感じてしまうようで、嫌だ、と言っていた。
また逆に、以前、ローマにいらした日本人神父の方が、時にナポリの下町の雑踏の中に敢えて行きたくなる、とおっしゃっており、ほう...と思ったことがある。私など、普段慌ただしい生活をしていると、海や山の中に篭りたくなるが(でも1日2日が限界であろう)、逆に人間味を感じるために雑踏へ行きたくなるケースもあるのだ、と改めて知った。
人間は、孤独な人を慰めるためには自分が孤独を味わってみないとできないと思う。毎年、帰国し、再びイタリアへ戻る際、なんとも言えないざわざわ感を感じる。故郷というよりも、多分両親への思いや今後の不安などが混ざり合っているのではないかと思うが、そんな苦さなど、もっと大きなものを抱えている人からすればたかが知れたものだろう。不安ばかりで、実際の悲しさなしで、重みのある慰めの言葉などかけられるはずがない。そんな時、初めて自己の無力さや限界を知るような気がする。また、他人と自分の間に横たわる必然的な距離について考察するようになる。淋しさの苦杯をなめて、初めて他人様が味わっている孤独感への優しいいたわりの心が育つのではないだろうか。
闇の中に置かれ、それまで知らなかった様々な「明るさ」がありがたく感じられる。それまで「当たり前」だったことが、光り輝いてくる。
孤独を経験することで、きっと人間味も深まるのだろう。
