復活前夜祭を経て、復活祭を迎えた。
イタリア語では、誰もがBuona Pasqua! ボナ•パスクワ!と挨拶し合うが、日本語の「主のご復活おめでとうございます。」は、さすが信者同士でないと言わない。逆に不気味がられるか?!笑
昨晩は日本人の友人の洗礼式があり、日本人のカトリック信者のグループでミサに参列して来た。また、ヴァチカンでも12名の成人が洗礼をパパ様から授かった。そのうち、中国人や韓国人もいたという。10年前に受洗し、その後ミラノでは10数名の日本人の成人が洗礼を授かっただろうか?2013年のカトリック情勢によれば、日本のカトリック教会の信者数は45万人弱。人口比は約0.345%。ちなみにここ数年、すごい勢いでシンガポールと香港でカトリック信者になるための求道者が増えているようだ。イタリアにおけるカトリック信者数は人口比85.67%とさすがに高いが、洗礼を受け、カテキズモを受けても、同棲、中絶、離婚率が高いのが実情。
ところで、宗教、宗教心、信仰というと、ちょっと引く人がいる。特に日本人に多く感じる。けれど、宗教と宗教心、信仰は別物。本来宗教心とは、人間の心の奥にある美しい部分であろう。愛、思いやり、優しさなど、心の中に神様がおられなければそれは育たない。目先のものに目を奪われていると、大切なものが失われてしまう。
また、信仰を持つと艱難がなくなるのではなく、周囲の状況が少しも変わらずとも、自分自身に艱難を乗り越える力が与えられる。そして深い安心感と感謝の心が与えて頂ける。
私たちは、弱い人間だから、人を殺したり、盗んだりするような大きな罪は犯さなくとも、必ず何かしら、言葉や思い、行いなどによって罪を犯している。それに気づくか気づかないか、罪のセンス、意識、そして改める心があるかどうかによって人間は、新たに生まれ変われるかどうか、変わってくる。
古い自分がキリストと共に十字架につけられ、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないようにしないといけない。死んだ者は、罪から解放されるが、キリストと共に死んだのならば、キリストと共に生きることにもなると信じられる。
私たちは、毎日の生活や人間関係の中で、わがままや無礼な態度、人を許せないことなど我が強すぎる言動をしてしまう。その「我」を抑えることによって、物事がうまくいくこともあるだろう。けれど、抑えるのではなく、「我」が死ななくてはならない。たとえ頭ではわかっていても非常に難しい。けれど、自分をほんの少しでも捨ててみる、自分を死なしめることによって、より良い人生につながる。その命を神様に委ねる勇気が必要だ。
「死」と「復活」。
「闇」と「光」。
「初心忘れるべからず」新たな気持ちが大切だ。四旬節、復活祭、そして洗礼式は、信仰による死の闇から命の光への過越の旅だ。その光が私たちを照らし、恵みを与えてくださいますように。常に希望を持って歩んでいきましょう。
画像は、「いつくしみの特別聖年」のロゴを描かれた、イエズス会所属のアーチストであり神学者でもある、Marko Ivan Rupnik神父の作品「地獄巡りと復活」
画像は、「いつくしみの特別聖年」のロゴを描かれた、イエズス会所属のアーチストであり神学者でもある、Marko Ivan Rupnik神父の作品「地獄巡りと復活」
