NHK連続テレビ小説「あさが来た」も最終回が近づいてきた。ここのところ、登場人物の死が続いているが、日本女子大学の創設者、初代校長として知られる成瀬仁蔵は、今朝の放送で、「私にとって生と死は違いがない。」と死生観を語った。
生があるから死があり、死があるから生がある。
この2つは常に一つのリズムとして我々の日常を流れています。
そしてこの体はただの衣服であり、本当の体はもっと奥にある。
そしてそれは永久に滅びません。
成瀬仁蔵はプロテスタントの牧師でもあったのだが、キリスト教徒にとって、死生観というのは、常にキリストの「死と復活」につながる。そして、復活というのは、スリラーのゾンビのように生き返るのではなく、自分の弱さや限界があることを認め、生まれ変わること。キリスト者として新たに生きること。この「死と復活」がなければ、聖パウロの言うように、私たちの信仰は虚しいものになってしまうことだろう。
...と前置きが長くなってしまったが、カトリック教会では、イエスがエルサレムに入城する「枝の主日」から「聖週間」が始まるが、キリストの受難と復活からなる過越の「聖なる三日間」が、全典礼暦年の頂点と位置付けられ、復活の祭日は典礼暦年の中で最高位を占めるとされている。
その聖なる三日間というのは、ユダヤ暦の考えに従い、第一日目は、木曜日で、木曜日の日没から金曜日の日没までをいう。いわゆる「最後の晩餐」からイエスの死(実際には現在の金曜日の午後3時くらいと考えられている)、そして墓に葬られるまでをいう。
聖木曜日は、聖体が制定された日だけではありません。確かに聖体の輝きは他のすべてのものを満たし、いわば自らへと引き寄せます。しかし、聖木曜日には次のことがらも含まれます。まずオリーブ山の暗夜です。イエスは弟子たちとともにこのオリーブ山に出かけます。イエスの孤独と、見捨てられたことです。イエスは祈りのうちに死の闇に直面します。ユダの裏切り、イエスの逮捕、ペトロの否み、最高法院での告発、異邦人であるピラトへの引き渡しです。このときにあたり、これらの出来事についての理解を少しでも深めたいと思います。なぜなら、これらの出来事のうちにわたしたちのあがないの神秘が行われたからです。イエスは夜の中に出て行きます。夜は交わりの欠如を意味します。それはわたしたちが互いを見ることのできない状況です。夜は無理解と、真理が覆われることの象徴です。夜は、光を前にして隠れなければならない悪が広まる場です。イエスご自身は光であり、真理であり、交わり、清さ、いつくしみです。このイエスが夜の中に入ります。要するに夜は死の象徴です。交わりといのちが決定的に失われることの象徴です。イエスは夜の中に入ります。それは、夜を圧倒し、人類の歴史の中で新たな神の日を始めるためです。(ベネディクト16世)
E lo credemmo abbandonato da Dio
「神に見放された彼を信じ」私の神よ、今あなたに、伏して赦しを願います。自信のない私をお赦しください。あなたの御言葉、あなたの愛の行いを再び受け入れる力をお与えください...涙が出るような美しい聖歌だ。
「たとえ、みながあたなのことでつまずいても、私は断じてつまずきません。」そう言い切ったペトロも3度もイエスを知らないと否んでしまった。「鶏が鳴く前に、あなたは三度もしらないと言う。」というイエスの言葉を思いだし、外に出て激しく鳴くペトロ...。
この三日間は、キリストの受難と死を単に時間的な順を追って再現するのではなく、人類の救いの歴史全体におけるその意義を思い起こし、聖書朗読や祈りを捧げる。また、聖金曜日は、大斎•小斎が行われる。大斎とは、食事を節制すること。全くの断食ではなく、1日の食事中一食だけ十分に食事をすることができる。朝食はごく少量、他の一食は普通の半分にする。満60斎に達するまでの全ての成人が守ると言われている(病人や妊婦は免除)が、どれくらいのイタリア人が守っているかどうか。苦笑 または、小斎は、鳥獣の肉を食べないこと。食物の質や美食に対する節制でもある。全ては各自の判断に任されるが、愛徳のわざ、信心業、節制のわざを実行することを持って替えることもできる。
余談だが, 今日3月25日は本来、大天使ガブリエルが聖母マリアにイエス受胎の告知をした「お告げの祝日」であるが, 今年は4月4日に移動している。
http://ameblo.jp/sofiamilano/entry-11825836762.html
http://ameblo.jp/sofiamilano/entry-12009850828.html
