枝の主日 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで30年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。




今日3月20日は「枝の主日」だった。
いよいよ聖週間に突入。

今年は、灰の水曜日から発熱し、アンブロジアーノ典礼の「灰の日曜日」も寝たきり生活。地元パロッキアの3日に渡る黙想会も教区のヴィア•クルーチスにも参加出来なかった。

ところで、私にとって今年は、受洗10周年記念。私の回心は聖パウロのように劇的ではなかったが、長い長い道のりだった。いつかは洗礼を受けるかもしれないが、罪深い私が神様の前にとても出ることなど出来ないと思っていた。しかし、自分が神様の慈しみの真っ只中にいることを発見し、洗礼を受けないわけには行かないと気づいた途端に全てがとんとん拍子で手続きが進み洗礼に至った。

あれから10年。私はどう変わったのだろう?
日常生活の中で、自分にとってどれだけ不確かなことでも動揺せずにいられただろうか?理解しがたいこと、不思議に思うことでも、謙虚に受け入れているのだろうか?

ところで、今日はミラノカトリック日本人会のごミサにあずかったので、ローマ典礼。毎年、今日のミサにおいて、「主の受難」の朗読が行われる。映画にもあるが「パッション」である。「主の受難」は初代教会においては重要な意義を持っていたという。ちなみに、今日のアンブロジアーノ典礼はヨハネの「イエスのエルサレム入城」の部分。

ミサの前に、オリーブの枝を持って、交唱「ダビドの子」を歌った。♫ダビドの子イスラエルの王にホザンナ。神から来られら方に賛美。天には神にホザンナ。神から来られた方に賛美...けれど、エルサレム入城は、イエスの受難の序曲でもある。人々が思い描くメシア(救い主)のイメージと、イエスの生涯にはあまりにも大きなギャップがある。

受難の道を歩まれたキリストの思いを心に留め歩むことがでるよう聖週間を過ごしたい。