二宮金次郎よ、再び! | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで33年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。



今日は、在ミラノ日本語補習学校の卒業式及び修了式だった。

昨年は、長女の高等部、そして長男の中学部の卒業で、一人感涙したものだった。

長男が高等部に進み、2年後は、次男の小学部と長男の高等部で、再びW卒業かと思っていたが、それも虚しく夢に終わることになった。海外で現地校に通いながら、日本語教育は、補習校だけではないとはわかっていても、離れてしまったら、家庭で日本語を話していても、勉強自体しなくなるのでは?という不安と焦り。詳細は省くが本人が限界だ、と言うし、親子の葛藤もピークでこのままいったら、親子関係にもヒビが入るのでは?と懸念があった。

けれど、日本語をペラペラ話し、読み書きのできるイタリア人も大抵は、高校生以上になって初めて本人が興味をもって勉強し始めたのがほとんど。今時の若い子たちは、インターネットで言語を覚えるケースも多いようだ。すごい子だとyoutubeで会話を覚えてしまう人もいる。スタートは問題ない。少なくともベースはあるのだから。勉強は「興味」「好奇心」「好き」が肝心。「好きこそものの上手なれ」だ。

そして今日、中学生の答辞で『「学ぶ」ということは「理解」すること』と言っており、確かに!と思った。本を読むことも、字を追うのではなく、ストーリーがわかれば面白くなるのに。

...というわけで、今後どう次男の日本語力というよりも国語力をゆっくりでも付けさせるかが、問題である。

ところで、幼稚園だったか小学生の頃、校庭に二宮金次郎が薪を背負い、本を読んでいる像があった。金次郎は、仕事をしながら儒教の経書を読んでいたらしい。当時の読書とは、漢字で書いてある文字を意味がわからなくても、声に出して読む。つまり音読だ。そうすることで、自然に漢文脈の文章を覚えていったという。たとえ意味がわからなくても読む、というのが当時の学習法だったそうだ。

最近は、早くから子供に、ひらがな、カタカナを教え始める親も多いようだが、やはり大切なのは読む力と書く力であると実感。明確なことだが、国語力のない子供は、まず本を読まない。本は読んでも、簡単な本ばかりを読んでいても力はつかないだろう。次男なんぞ、4年生になってもずっと「かいけつゾロリ」シリーズばかり。もうちょっと難しい内容にしようよ!難しい文章は精読する必要がある。「精読」とは、内容が理解できるまで、一字一句注意して読む。その結果、よく読みこなした場合が「熟読」であり、さらに、文学作品など鑑賞する気持ちが加わった時「味読」という。

つまり、二宮金次郎は、精読のための音読であったとも言えるだろう。意味がわからなくても繰り返し読む。これで行くのもいいかなあ。

そういえば、毎週お見舞いに通っている日本人のシスターに、たまには「難しい本を読みなさい」と言われてしまった。もちろん神学関係である。シスターが奥村神父様の本がおすすめ、だというので「断層」という本を借りてみた。奥村神父とは、禅を修し、カトリックに改宗して教皇庁諸宗教対話評議会顧問なども務められた神父様でいらっしゃる。

>切に勧めますが、本を読んだり、お説教を聞くとき、また信仰上の秘義について黙想するとき、よく分らないことが出てきても、それを細かくせんさくして頭を疲れさせたり、心を涸らしたりしてはなりません。女性のためでないことはたくさんありますし、男性の方も分らないことがあるのですから。

...ということで、思い切り端折って読んでしまった。爆

それにしても、今時、歩きスマホはミラノでも皆そうだが、薪は背負っていなくても、二宮金次郎派はさすがにいない。苦笑

また、二宮金次郎は、働く気がなかった人、ばくちをしていた人の心を耕し、勤勉な農民にしていったという。「人を育てる」ことにも長けていたのだろう。

二宮金次郎よ、再び!