オラトリオとは、2つの意味があり、1つは、バロック音楽の一つ。そしてもう1つは、カトリック教会(サレジオ会創始者のドンボスコが提唱)内において, 若者が運動や宿題を見たり、教育を通じ、仲間を作る祈りの場である。けれど、それはカトリック信者だけに開かれているものではなく、すべての若者に開かれた場であり、ミラノ司教区のスコラ大司教も、「オラトリオはイスラム教徒にも心を開き、扉は常に開けておくべきだ」と仰った。
ロンバルディア州の86%のオラトリオには一人以上の外国人が在籍しているという。(もっと高いかと思っていた。)私の在籍するオラトリオは、かなりの人数の外国人がいる。南米人、フィリピン人、アフリカ人。そして、エジプト人はコプトとイスラム教徒がいるが、男の子たちは、見た目だけではわからず、中学生くらいのイスラム教徒女子も、本人の意思によるらしいが、たいていは生理が始まったくらいから本来はベールをつけるよう勧められているが、していない子も多く、そうなると見た限りでは宗教は全く判別できない。世の中では、宗教対立による戦いは現在も続いているが、対立よりも共生している現実もある。
所詮、宗教に限らず人間は一緒。同じように受け入れるべきだと思うが、事実上、子供よりも、親が躊躇し、またその子供に影響し、ミサやカテキズモ(初聖体や堅信に向け、カトリック要理の勉強)に来ていても、オラトリオに来ないイタリア人が多いのは事実。我が家の子供達も、私の所属するオラトリオには行きたがらない。次男は私がオラトリオを手伝いに行く日は、ついてくるが、サッカーをしていてもアラブ人達が来る時間帯になると、先に家に帰ってしまう。どうも合わないらしい。
話は前後するが、昨年の夏からオラトリオを手伝うようになり、秋からは週1で通っている。教会には多くのボランティア、つまり奉仕者がいるのに、なぜかオラトリオは、常に人手が足りない。実質上、5人女性がいるが、フルに働いている人が2人いるので、仕事を回していくにも限度がある。年齢的に小学生から中高生あたりまで。大学生になると、指導者(”アニマトーレ”と呼ばれる)として活躍しているが、勉強も忙しく徐々に数が減っていき、これで就職でもしようものならほとんど来れなくなってしまう。年齢的に、「思春期」という魔の時期に加え、宗教というよりは、人種の違い?いや国籍にかかわらずしつけのレベルの違いがはっきりしているのだ。
初めて乱暴な子供達を見たときは、げっ嘘でしょ?私無理だわ。と思った。問題が起こるたび、司祭が仲介に入り、彼らの言い分、そしてあるべきことを言い聞かせるが、鼻で笑って人の話を聞こうとしない子達が多い。子供によっては、私を「チネーゼ、チネーゼ」(中国人)といってイライラさせる。昨年の海へ行くツアーでも食べたものを散らかすどころか、バスの椅子の下に噛んだガムを貼り付けたり、ちょっと日本では考えられないようなレベルで、勘弁してよ、と思ったものだ。
そこを、頭から「maleducato!」しつけの悪い子達!と罵るのは簡単だ。けれど、いかにして共生していくかが問題。多分、学校でも問題児扱いされ、留年させられ、いやだったら、やめたらいいというような態度を学校側にされるのだろう。どんどん不良化して行く子達も多い。そういう子達のたまり場に、オラトリオがなりかねない可能性もあるので、頭が痛い。いかに彼らを受け止めるか... 疎外感や孤独を感じている子達に、安心できる場所を提供するか...
イスラム教徒、仏教徒、または無宗教の外国人がなぜオラトリオに来たがるのか?その家庭は何を求めどう感じているのだろうか?
実際”ドッポスコーラ”と呼ばれる宿題をみるクラスに入れて欲しいと申し込みにくるイスラム教徒の家庭は多い。私は以前住んでいた地域のオラトリオにまだ小さかった子供を連れて行ったことがある。当時は、外国人さえいなかったアパートだったし、しかもオラトリオに来る外国人さえ珍しかったのかもしれない。やはり「チネーゼ、チネーゼ」と言われ、子供達は行きたくないといい、私も正直滅入ったものだ。信者がオラトリオでそういうことをすれば、扉を叩く人が引いてしまうのは、当たり前。決して、差別はしてはいけない。
実際”ドッポスコーラ”と呼ばれる宿題をみるクラスに入れて欲しいと申し込みにくるイスラム教徒の家庭は多い。私は以前住んでいた地域のオラトリオにまだ小さかった子供を連れて行ったことがある。当時は、外国人さえいなかったアパートだったし、しかもオラトリオに来る外国人さえ珍しかったのかもしれない。やはり「チネーゼ、チネーゼ」と言われ、子供達は行きたくないといい、私も正直滅入ったものだ。信者がオラトリオでそういうことをすれば、扉を叩く人が引いてしまうのは、当たり前。決して、差別はしてはいけない。
ということで、先日、オラトリオの大人のスタッフ5名と担当司祭とでミーティングが行われた。いつも、なんで私なんだろうなあ、という不満、疑問を持っていたのだが、いきなり司祭が聖書を読みだした。イエスキリストはなぜ弟子12人を選んだのか?小さな共同体も兄弟愛を徐々に広げることによって、大きくなっていくという。私たちは、決して特別ではないし、たまたま選ばれたのかもしれないが、ここでやめるのは簡単だが、投げるのは私の使命を拒否することにならないか?寝込んだ時、ずっとそれを考えていた。なんで、私なんだよ...と。自分の家庭の子供だけでも精一杯なのに、オラトリオの子供達を見るのには、扱いやすさ云々でどうしても好き嫌いというか苦手な子も出てきてしまう。矛盾、葛藤、自己嫌悪。逆の面から私も成長しなければならないのかもしれない。
今後どうすべきか?第一回のミーティングは時間切れ、そして堂々巡りで終了。ああ。
試練は続く...
