安土桃山時代のキリシタン大名で有名な高山右近が、カトリックで聖人の手前である「福者」に認定されたのは最近の話。
その「高山右近史話」によると、右近は当時キリシタンが暗唱していたカトリック教理個条のある「慈悲の所作」を実践し、その領地は福祉国家だったという。その「慈悲の所作」は、当時の教理書「どちりいな•きりしたん」によると以下の7つの霊的な慈善の業と身体的慈善の業とに分かれていたそうだ。
スピリッツ(霊的)にあたる七のこと
一には、人には異見を加ゆること、(人にはよい意見を言いなさい)
二には、無知なる者に道を教ゆること、(道理を知らない人には道を示しなさい)
三には、悲みある者をなだむること (悲しみの中にある人にはその心に寄り添いなさい)
四には、折檻すべきものを折檻すること (過ちのある人には、改めるよう言いなさい)
五には、恥辱を堪忍すること (恥になることを受けても赦しなさい)
六には、ポロシモ(隣人)の不足を赦すこと(隣人の過ち至らなさに堪えなさい)
七には、生死の人と、また我に仇をなす者のために、デウス(神)を頼み奉ること、これなり。(生きている人にも、死んでしまった人にも、私たちを恨む人のためにも神に祈りを捧げましょう)
一には、人には異見を加ゆること、(人にはよい意見を言いなさい)
二には、無知なる者に道を教ゆること、(道理を知らない人には道を示しなさい)
三には、悲みある者をなだむること (悲しみの中にある人にはその心に寄り添いなさい)
四には、折檻すべきものを折檻すること (過ちのある人には、改めるよう言いなさい)
五には、恥辱を堪忍すること (恥になることを受けても赦しなさい)
六には、ポロシモ(隣人)の不足を赦すこと(隣人の過ち至らなさに堪えなさい)
七には、生死の人と、また我に仇をなす者のために、デウス(神)を頼み奉ること、これなり。(生きている人にも、死んでしまった人にも、私たちを恨む人のためにも神に祈りを捧げましょう)
身体にあたる七のこと
一には、飢えたる者に食を与ゆること、(飢えた人には食用を与えなさい)
二には、渇したる者に物を飲ますること、(水を欲しがる人には水を与えなさい)
三には、膚をかくしかぬる者に衣類を与ゆること、(裸で暮らす人には衣服を与えなさい)
四には、病人をいたはり見舞うこと、(病人をいたわり見舞いなさい)
五には、行脚の者に宿を貸すこと、(行きずりの人に宿を貸しなさい)
六には、とらはれ人の身を請くること、(捕らわれている人を受け入れなさい)
七には、死骸を納むること、これなり。(屍体は丁重に埋葬しなさい)
一には、飢えたる者に食を与ゆること、(飢えた人には食用を与えなさい)
二には、渇したる者に物を飲ますること、(水を欲しがる人には水を与えなさい)
三には、膚をかくしかぬる者に衣類を与ゆること、(裸で暮らす人には衣服を与えなさい)
四には、病人をいたはり見舞うこと、(病人をいたわり見舞いなさい)
五には、行脚の者に宿を貸すこと、(行きずりの人に宿を貸しなさい)
六には、とらはれ人の身を請くること、(捕らわれている人を受け入れなさい)
七には、死骸を納むること、これなり。(屍体は丁重に埋葬しなさい)
そこで、あれ?最近、パパ様も今年2016年の四旬節のメッセージとして、「四旬節は、霊的な慈善の業と身体的な慈善の業を行うことによって、自己疎外を克服するのにふさわしい季節」とおっしゃっていたなあ、と思い出した。霊的な慈善の業と身体的な慈善の業を切り離して考えることはできない。今年のテーマ「わたしが求めるのはあわれみであって、いけにえではない」(マタイ9・13)は、聖年の歩みにおける慈しみの業である。
「慈悲、慈しみ」という言葉は、ラテン語ではミゼリコルディア•Misericordiaという。miseria (あわれさ、悲惨さ、みじめさ)を心する(cordia)ことであるが、日本語で「憐れ」というと、どうも悲惨で憐れ、不憫なイメージがあるが、本来は「慈しみ」と同じ意味で使われており、目下の者や弱い者に愛情を注いだり、大切にすることだ。「大切」と言えば、キリシタン時代、「神の愛」を「デウスの御大切」と訳されていたようだが、なんと素敵な語学センスなのだろう。
「御大切」とは、その人の存在そのものを受け入れ、その全てを大切にしてくれるということ。自分にとって役に立つからとか、自分の快楽を満たしてくれるから、とか「見返り」があるのではなく、無条件に大切にするということ。それはボランティア精神も同じことだ。
イタリアで生まれた福祉団体「Misericordia」は、キリシタン時代の日本にもあり、「慈悲屋」と呼ばれ、キリスト教の精神に基づく病院や孤児•老人施設があったという。それに関してはいずれまた書きたいと思うが、ボランティアを、「慈悲の所作」と呼ぶこの表現に惹かれる。
ところで、先日数回顔を合わせたことのある方に「仕事は何をしているのか?」と聞かれた。無職、主婦、と答えるのはどうも気が引けてしまう。「特にしていませんが、ボランティアをチラホラ...」というと「それも立派な仕事ですよ。」と言われた。「確かに。収入はありませんが。」と苦笑。
以前itamaの写真展に夫を連れて行ったら、「なんか、どのおばちゃんたちも生活が豊かな人たちばかりに見えるな。」とぽろっ。非常に嫌味に聞こえた。決して、お金と時間が有り余っているから暇つぶしでボランティアをしている訳ではない。確かに、生活がギリギリだったら、何か収入を得ることをすべきだろう。確かに、仕事が見つかったからといってボランティアを辞めていく人も毎年数人いる。けれど精神的にそれ以上に大切なものもある。まあ、言っても仕方ない、と思って黙っていたが、有り余っているお金の一部を寄付するとか、暇だから何かをしようという人もいるのだろうが、不特定多数の方にお世話になった恩返しのため、とか必要としている誰かのために手を差し出すことで、自分は神様の道具として使われる。そして、神の慈しみの道具であることの大きな喜びを感じることができる。それを自己満足と思うかどうか(大抵は第三者に対してだろうが)勝手だが、
以前itamaの写真展に夫を連れて行ったら、「なんか、どのおばちゃんたちも生活が豊かな人たちばかりに見えるな。」とぽろっ。非常に嫌味に聞こえた。決して、お金と時間が有り余っているから暇つぶしでボランティアをしている訳ではない。確かに、生活がギリギリだったら、何か収入を得ることをすべきだろう。確かに、仕事が見つかったからといってボランティアを辞めていく人も毎年数人いる。けれど精神的にそれ以上に大切なものもある。まあ、言っても仕方ない、と思って黙っていたが、有り余っているお金の一部を寄付するとか、暇だから何かをしようという人もいるのだろうが、不特定多数の方にお世話になった恩返しのため、とか必要としている誰かのために手を差し出すことで、自分は神様の道具として使われる。そして、神の慈しみの道具であることの大きな喜びを感じることができる。それを自己満足と思うかどうか(大抵は第三者に対してだろうが)勝手だが、
「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒言行録20・35)
人間味と器は変わってくるに違いない。
人間味と器は変わってくるに違いない。
