今日、空手の稽古の終わりの挨拶の際、師範より皆に聞きたいことがある、といって質問がされた。
「この中で嫌いな教科がある人?」いないものはいないだろう。一般的に...
複数が手を挙げた。日本語での質問だったので、そこで手を挙げたのは、日本人かハーフのお子さんのみ。「算数」「漢字」「地理」...意外に教科は多岐にわたりはしなかった。今日は長男、次男は稽古を欠席していたが、いたら100%「国語(日本語)」といったことであろう。
漢字テストは、出題範囲さえわかっていれば、そこを勉強すればできる。けれど、一般的な国語といえば、やはり難しいのは読解、作文だろう。彼らは両方とも苦手。なぜかといえば、まず本が嫌い。それはなぜか?といえば、面倒臭いからだろう。忍耐力がない。けれど、もし興味のある分野だったら変わるのではないだろうか?期待はするが、しかし、感想文となると、これまた内容が幼稚以前になんだその発想力の乏しさは!と言った感じ。
補習校の次男のクラスでは、毎週家で読んだ本のページ数を記入し競争する。本人が本が嫌いだからといって、親が子供を追いかけながら音読してあげている人もいるようだが、幼稚園生じゃあるまいし、それってどうよ!と思う。子供達が小さいころ、在ミラノ邦人の読み聞かせグループに数年参加していた。子供が喜んで本に興味を持ってもらえるよう、率先して私が本を皆の前で読むこともあった。けれど、喜んだのは長女のみ。だから本が好きなのは長女のみ。彼女は書くことも得意だ。けれど、息子どもはダメ。私が本を読みだすと逃げ出した。きっとそれが今もトラウマになっているのだろうか?
空手の師範の話に戻ると、「いくら嫌いな教科があっても、休みの日にゆっくりその教科と向き合ってごらん。意外に嫌いじゃないかもしれないよ。」とのこと。いや~それ以前、むきあう忍耐力がないだろうなあ、と聞いた瞬間脱力。
経験からすると、好きな教科も嫌いな教科も、その担当の先生によって好き嫌いが出てくることもあるだろう。また、好きな子の影響とか、何かと第三者の存在が影響してくるもの。長女は中学生のころ、数学の教授が非常に人間的にも興味深く授業が面白いと言っていた。けれど、その方が中1の時点で引退され、意地悪な女性教授がやってきて、一気にやる気が失せ、数学嫌いが始まった。よくある話だ。
師範は、「学校の授業以外でも、友達や家族でも合わない人っているでしょう?ここにもお父さんと合わない、とかいるでしょう?」と続けられた。「そうそう、合わない。うちのお父さん。」と独り言を言うと、隣にいた友人が「えっお宅って知っている限り平和な家庭だと思っていたと思うけど。」という。「まあ、ほとんど顔合わさないしね。」と小さな声で言ってはクスクス笑う。
「苦手な人とでも、じっくり向かい合ってごらん。好きになるから。」というようなことを師範はおっしゃった。う...ん、じっくり向かい合うというよりは、赦しあうってことかなあと個人的に思う。生活が長くなればなるほど、あの一言が腹が立つ。あの態度が許せない。それが根っこを張ってしまうのだ。目を背けてしまえば、その場はなんとか通り過ごせても、解決したわけではない。
最終的に、他人がどうこうというよりも、人を赦すことによって、また人を許せない自分自身を受け入れることによって、怒りや苦しい思い、場合によっては復讐心を克服することができるのだと思う。赦すことによって、言葉ではうまく説明できないけれど、霊的な傷が癒され、神様がお与えになることのできる心の平安を得ることができると思う。
あとは、笑い飛ばし、開き直ること。
そういえば、今日の空手の稽古でのミット蹴りは、4列に進んで行ったが、「女性はここ~!」と柔らかいミットを指定された。げっあれってやわらかすぎるんだよね。だからといって、別のミットは固すぎる。「自分が強い女性だと思う人は移動して!」と言われ、さあどうしよう...と思ったが、硬いミットで回し蹴りをしようものなら、足の甲が真っ赤になる。う...ん、今日は柔らかい方にしておこうかな、と思いそのままの列にいると、私の前にいた上記友人が「なんで、あなたそこにいるの?」という。「だって心も体も弱いし...」といって大笑い。お互い丙午である。爆 そんじゃそこらに男性には負けません!
とはいえ、人間は苦手なものだらけ。苦手なものは多いほどいい。少なきゃ損!苦手なものがあるから、それだけよくなるものがある。だからそこに成長がある。成長があれば、その分魅力的な人間になれると思い込もう!
最終的には、根拠がなくてもウルトラポジティブでいるしかない、という結果に至った。苦笑
