友人が体調を崩し、大変なことになっていると連絡が入り、皆周りの人間が彼女のために何かをしたい、と思って動き出した。
聖書に「あなた方は、人からしてほしいことを、人にもしなさい。」という教えがある。人のために何かをしたり、一緒に喜ぼうと手を差し伸べる彼女は、逆に意外に自分から人にSOSを出すのは苦手だ。
子供が小さい頃、なぜか私が体調が悪くなるのは、週末が多かったが、平日だと幼稚園や小学校への送り迎えができず、夫は全く当てにならない。食事の準備はできないし、本当に困ったものだった。近所の友人や先生に連絡をして子供を幼稚園やら学校へ連れて行ってもらったことがある。でも自分から人に連絡が取れなかったら悲惨だったであろう。
数年前、次男のクラスメートの子供があまりにも学校に来ないので、久々会ってどうしたの?と聞くと、はじめは子供の具合が悪く、その後母親が倒れてどうしようもなくて家にいた、という話を聞いて驚いたことがある。彼女は、母ひとり子一人で、友達という友達もいなかったし、学校から離れたところに住んでいたので、誰にも助けを求められなかったのだ。彼女とはitamaで一緒でよく喧嘩もしたけれど、一言言ってくれればよかったのに...とも思ったが、あとのまつり。気づかなかった自分がいたのも確か。可哀想なことをしたな、と思ったものだ。
日本では「自分のことは自分でやって一人前」という考えが根ざしていると思う。逆に誰かに頼るのは半人前だと。私も子供達には「他人様に迷惑はかけてはいけない」と教えてきたが、最近は基本はそうでありつつも、現金なもので「他人様に迷惑をかけて生きる方が強く生きられるのかもしれない。」とも思うようになった。
自分にもしものことがあった場合、「他人に助けを求める力」がなければ、すべてを自分一人で抱え込んでしまい、心の病気になってしまったり、下手すれば、命を絶ってしまうことさえありうる。「自分のことは自分でする力」と同レベルで「他人様に助けを求める力」も重要なのではないだろうか?極論、人とのつながりが大切だ。助け合うことは、助けられる側だけでなく、助ける側にも、「喜び」がある。
今日、上記友人のところを訪ねてきたが、私自身役立たずで、もう一人の友人がすべて働いてくれた。しかも彼女が作ってきたご飯まで食べさせてもらい、オラトリオがあったので、先に失礼してしまい、申し訳なかったが、それでもちょっとおしゃべりができたことは、気分転換になったのでは?と善意の押し売りのようだが、逆に我が家の愚息のことで勇気をもらって帰ってきた。
誰かの役に立つこと...というと、自己満足、または何か下心があるのか?と聞こえるかもしれない。けれど、単純に人間は「自分のために生きている」よりも「誰かの役に立つことができた」と感じる時、やはり喜びは大きい。
ところで、ここ数年、ミラノでは日本人の孤独死が何件が続いている。私が知っているだけでもこの数だから、実際はもっとあるのかもしれない。在ミラノ4、50年以上になる方々だと、それこそ、結婚の有無、子供の有無に限らず、最終的には、女性一人になるケースが多いようで、最終的にやはり頼りになるのは、友人とそのネットワークのようだ。
「言ってくれればよかったのに」と思うことが経験上たくさんある。でもその逆に誰かに助けを求める?ということは、恥ずかしさや気遅れが伴うことも多く、ギリギリにならないとできないことも多い。
完璧な人間はいないし、なる必要もない。足りないところはお互いが補充しあえる友人関係であったらなんと素晴らしいだろう。自分ができる範囲の優しさを提供しあう。それは決して自分をオープンにさせることもないだろう。その人から出る人徳で人の周りには人が集まる。その輪がダブりあって、大きくなっていくんじゃないだろうか?
「人」という字は、二人が支え合って立っている。そして、「間」という字は、人というのは他者との関係なしには存在し得ない。社会的な「間」、つまり関係性が必要だということ。自分の存在が誰かの希望となる。例えば今日は友人の存在が私の子育ての希望となった。
逆に、私にとって大事なことが、誰か他者にも役立てることができると良いと思う。希望のない人に、希望のひとかけられでも与えられる存在になれれば、私も生きている価値もあり、こんな幸せなことはないだろう。
「他人に迷惑をかけてはいけない」ではなく、「どれだけ楽しく人に迷惑をかけられるか」...図々しく生きてもいいじゃない、と思える日だった。
