父親が漁のため北の海に行ったまま消息がわからず、病気の母親を抱える孤独な少年ジョバンニ。彼は生活を助けるために学校の後に活板所で仕事をしていた。父親がいないために他の子供たちにいじめられる中、小さい時からの友達だったカムパネルラだけはジョバンニに優しかった。
ある夜、ジョバンニは一人で星空を眺めていると、「銀河ステーション」というアナウンスが聞こえ、眩しい光とともに包まれ、カムパネルラと二人で幻想の旅に出る....。
二人の幻想の旅は、藤城清治氏の描く影絵によってより美しい夏の夜を幻想的に、そして悲しく物語っている。彼の影絵劇は、1956年度国際演劇参加読売児童演劇祭奨励賞、そして日本ユネスコ協会連盟賞を受賞している。
ところで、ここ数年、個人的に非常に「死生学」に興味があるのだが、この「銀河鉄道の夜」の中で、さそりの話が気になった。
一匹のさそりがイタチに追い掛けられ、逃げるうちに謝って井戸に落ちてしまう。溺れ死ぬ寸前にさそりはいう。「こんな目に遭うんだったら、はじめから食べられてしまえば良かった。自分は逃げたが故に死にそうだ」そして初めてさそりは神様に祈る。「自分は死んでしまうけれど、今度生まれ変わる時は、人のために役立つものにしてください。」と。そして、ふと気づくと、暗い夜に航海する人々の道標となるため空の上で自分の体を燃やし続ける星になっていた。...
生きている時、さそりはいろんなものを毒を持って殺して食べて、悪いことばかりしていた。けれど、死の直前の祈りを、神様は聞き届けてくれた。神様がいることも知らず、信じてもいなかったさそりの願いが届いたのなら、自分は仏様とか、ご先祖様にお願いしたら救われるかもしれない、と思う人もいるだろう。特に、大きな病気をしたり、人生の晩年に辿り着いたり、親の老後を見つつ、そういうことを考えたりするのではないだろうか?天国?極楽?を信じていなくても、ご先祖様の元に行きたい、と思う人も多いことだろう。
人は死が迫ってくると、自分の人生を振り返り、やり残したことがないか、まだやらねばならないことを数えたり、または罪悪感に苛まれたりするのではないだろうか?
この物語は宮沢賢治氏の死後の世界のイメージだともいう。信者からみると非常にクリスチャン的なイメージがあるが、賢治自身は仏教を信じており、亡くなる時もお経を読んでいたという。
ふと目を覚まし、ジョバンニは街に戻る途中、カムパネルラが川に落ちた友人(ジョバンニに意地悪をした友人)を助けようとして溺れてしまい、行方不明になったことを知る。
本当のしあわせってなんだろう?
生きる意味と自分の居場所を見つける、幻想的で非常に哲学的な一冊であった。
影絵 藤城清治 銀河鉄道の夜

