孔子にみる人生観 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで33年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。



今日1月11日、日本は「成人式」。
長女は今年で二十歳になるが、成人式は数えで二十歳になる人が祝福されるのかと思っていたが、どうも最近、特にハッピーマンデー制度導入以降は前年(今回の場合は1995年)の4月2日から翌年96年4月1日に成人する人を式典参加の対象にするそうで、そうなると5月生まれの長女は成人式は来年になるのか? 

とはいえ、内閣府のHPによると、成人とは、「おとなになったことを自覚し、自ら生き抜こうとする青年...」とあるし、まっすでにイタリアでは18歳で成人とされたし、高校を無事に卒業し、大学で勉学に励んでいるのだから、私の心の中ではすでに成人だ。

ところで、「論語」の中に、孔子の有名な一節がある。

 「吾、十五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従えども、のりをこえず。」

十五歳の時に学問に志したとは、いろはを学ぶのではなく、自分の求める分野の専門的な勉強を始め、
三十歳にして立つとは、自分の精神の立場を確立。
四十歳にして惑わずとは、悟りが開け、人生に対しての疑いをいだかなくなったことであり、
五十歳にして天命を知るとは、自分の生涯における使命を見極める。
六十歳にして耳順うとは、修行がますます進み、聞くところ理屈に合えば、何の障害もなく理解し、他人の言葉を自然に受け入れることができるようになり、
七十歳にして、心の欲する所に従えどものりをこえずとは、自分の思うことすべてが、真理にかない、思うがままの行いをとっても自然の法則から外れることのない、悟りの究極を体得。

この簡潔な言葉が何千年も普遍性を持っているのは、素晴らしい。

ところで私は、今年でjust 50!
その前に、10年前、40歳でカトリックの洗礼を受けた。決して悟りが開けたわけでもないし、人生に対しての疑いを抱かなくなったわけでもない。ただ、信じるものを見つけたので、たまに心は揺れるものの、何か別の次元で自分を見ることができる柱ができたというか、愚痴っぽくなっても、安心して委ねて生かされている気がする。大切なのは、魂に恥じない行為をする。それが喜びと知ることができたということ。

50にして天命を知る。自分の生涯における使命とは何か? 自分の芯、柱が見つかれば、あとはぶれないよう生きるのみだ。

ところで、海外での成人とみなされる年齢は日本よりも早いけれど、どうも日本の成人は幼稚すぎると毎年成人式の際、ぼやきを聞く。自立した「個」としての人間が育っていないという事か。

年始に目標を立てたが、年齢における人生目標を立てるのも良い事かもしれない。

いかに生きるか。逆を問えばいかに死ぬか、とも言えるかもしれない。

「人は必ず死ぬというのに、長生きを叶える技術ばかりが進化してなんとまあ死ににくい時代となったことでしょう。死を疎むことなく、死を焦ることもなく。ひとつひとつの欲を手放して、身じまいをしていきたいと思うのです。人は死ねば宇宙の塵芥。せめて美しく輝く星になりたい。それが、私の最後の欲なのです。」(樹木希林)

http://movie-house.net/2016/01/08/「いかに死ぬか?」全身ガンを患い死と向き合っ/

生あれば死あり。
誰もが死と隣り合わせで生きている。だからその時、その時を一生懸命生きないといけないと再確認した。