ジュビレオ 〜 キリストに扉を開こう | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

教会には、2000年の歴史がある。また、教会は何世紀にもわたって、贖いの年である聖年を祝って来た。聖年は通常25年ごとに巡ってくるが、今年は特別に設けられ、しかも聖年としては、初めて名前がついた聖年(いつくしみの特別聖年)である。

大聖年•ジュビレオ ( Giubileo ) 」という言葉はヘブライ語から派生しており、語源、そして元々は49年ごとに行われるという伝統も、すべてユダヤ教から伝えられている。ユダヤの人々はこの祝日をラッパ(Jobel)を吹いて祝った。ちなみにユダヤ教では「ヨベル( Yobel ) の年」と呼んでいたそうだ。

ところで、「罪の免償」というと、カトリックは謝ればなんでも許されるのか?逆を言えば、許してもらえるからといって悪いことをしてもいいのか?という声を度々聞く。人は誰もが罪人である。罪には罰が伴うが、罰は神様が与えるものではない。いずれにしても内面を新たにすることが大切。知らずに犯した過ち、隠れた罪から清められることが、人間必要なのだ。後悔や自責の念に駆られ、自分のいたらなさだけを追求してしまうと心の自由がなくなり苦しくなってしまう。許されることによって、私たちは救われる。

先日から始まった「いつくしみの特別聖年」。ミラノでは3つの教会の聖なる扉が開いたが、地元サンシーロ教区(6つの教会を含む)は今週月曜日から水曜日までの3日の間に、新たに「聖なる扉」として認定されたドンニョッキのお御堂巡礼に参加した。

徒歩1分でありながら、そこでのミサにはほとんどあずかったことがない。友人が毎年、復活祭前の四旬節にコンサートを開かれるので、それに出かけるくらい。

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夜の8:30に地元教会に集合し、ドンニョッキまで7-800メートルのところをゆっくりとロザリオを唱えながら出かけた。早く到着してしまい門の前で待っているとあれよ、あれよといううちにすごい人山となった。9時になり歌いながら門をくぐった。

福音、オメリアを聞き、赦しの秘蹟にあずかるために、良心の糾明、そして祈りを捧げる。お御堂には約250人ちかい人がいただろうか。そして司祭は20人前後。司祭があちらこちらに散らばり、適当な場所で秘蹟にあずかるというもの。膝間づいてしているところ。椅子に座って向き合っている人もいれば、横に並んでいるものあり。私はすでに日曜日に秘蹟に預かっていたが、どうもすっきりしないものがあり、もう一度秘蹟に預かった。それは立ちながら...

終了し、自分の席にもどり祈りを捧げる。秘蹟が終わると、笑顔の人、涙を流している人、と様々。一度にこんなに多くの人が同時にゆるしの秘蹟を受けたのは初めて。感動だった。


image 「あなたの罪は赦された」(ルカ7:48)

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いつくしみ...それは人生の旅路で出会う兄弟と真摯に向き合うとき、それぞれの心で働く、基本となる法です。

いつくしみ...それはわたしたちの罪という限界にもかかわらず、いつも愛されているという希望を心にもたらすもので、神と人が一つになる道です。(教皇フランシスコ、「いつくしみの特別聖年公布の大勅書 」より)

教会のいつくしみの扉は常に開いています。
パパ様は、神は常にいつくしみの扉を開き、あらゆる人に救いの手を差し伸べているのだから、全ての教会と全てのキリスト者の心は決して他者に向けて閉ざされてはならない、と強調されている。まこと、確かに。「アーメン」である。

この1年間、ジュビレオを機に、私たち一人ひとりが、愛である神について、またこのジュビレオが、キリスト者として何を意味するのか思いを巡らすことが大切だ。

「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(ニコリント6:2)

http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/francis/msg0245.htm

http://ameblo.jp/sofiamilano/entry-12103726994.html