今週の1冊 ④ 〜 プラタナスの木 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。



今回は光村図書、小学4年生の教科書に紹介されている単元、「プラタナスの木」(椎名誠氏著)のご紹介。長女、長男の小4時代の教科書には載っていなかったものだ。ここでは、心に残ったことを感想文にしようというのが目的で、今週の次男の宿題もこの「プラタナスの木」の感想を原稿用紙2枚にまとめるものだった。

この2週間ほど、教科書の音読は聞いていた。
主人公の少年たちは、あまり人のこないプラタナスのある公園でサッカーを楽しんでいた。ある梅雨明けからおじいさんが来るようになり、木の枝や葉に届く栄養は、同じくらいの根があるからと聞かされて、何かを感じる子供達。夏休み、皆が旅行に出ている間に、台風がやってきた。台風で倒木寸前のプラタナスは危険なので切り株だけ残して切られてしまったが、その後おじいさんも来なくなってしまった、という話。

子供達はおじいさんに会いたい気持ちでいっぱい。ではなぜ公園に現れなくなってしまったのだろう?

「おじいさん、死んじゃったんじゃないの?」と私がいうと、次男は、ぼそっと「ママ、想像力ないなあ」と一言。えっそうなの?と聞くと、「きっとおじいさんはプラタナスの木だったんだよ。でも切られても、株が残っているから、春になってまた芽が出てきたら、きっとおじいさんも戻ってくるんだよ。」という。へ...帰宅してもう一度読み直してみた。

そうか、子供心がないとおじいさん死んじゃった。御愁傷様でこのストーリーも終わってしまう。

考える力、そして人を育む教育は、現実ばかりを語っていたら、豊かな感受性も想像力も育たないか。

そうか、おじいさんは、プラタナスの精霊だったんだな。けれど、プラタナスの公園が好きな子供達にしか見えない精霊なのかもしれない。少年たちも大人になって、彼らの子供、そして孫の時代になって、またプラタナス公園でおじいさんに会えたらいいかもね、と話した。

国語の教科書に出てくる単元って面白くないなあ、と子供の頃から思っていたし、今も子供の教科書を読んでもそう思う。けれど、本を読み、考え、文章としてまとめる...という一連の訓練には、「面白い」かどうかではなく、その内容に対し、自分の意見、理論、経験を基にして感じたものなどを、細かく分析し、論理的に綴ることが重要で、将来的に、高校や大学生になってレポートや小論文に発展していく際、書く力がないと後々困る。

子供の心を忘れていることに気づけるよい機会だった。


音読 「プラタナスの木」