以前補習校のある先生が面白いことを、文集に書かれていた。
かつて国語の教師をされていた時代、成績優秀な生徒には、下記のような2つの特徴があると気づかれたという。(必ずしも、それが100%とは思わぬが)
☆ 字が上手で丁寧に書く生徒。
☆ お世辞にも字は上手とは言えないが、書くことを面倒くさがる生徒。
前者は、基本的に勉強することが、苦にならない。整理しながら書いて覚えようとするからだという。字を綺麗に書く意識がなくても、見やすいノートを作るという。確かに、以前東大合格生が使うノートというのが流行っていたことがある。また、東大生のノートは必ず美しいのだという記事も読んだことがある。
また、後者は、まず、ノートは書かない。書かなくても覚えてしまうから、書くことに執着しない、という。ちなみに彼らの勉強時間は短いのだそうだ。
私は、決して成績が良かったわけではないが、上記両方に当てはまらない自称メモ魔である。恐ろしく字は汚いが、昔から、ノート、日記、手帳、走り書きがものすごい。聖書研究でも、聖書に直接書いてしまうから、逆に聖書が読めなくなってしまい、何冊も買い換えている。苦笑 ちなみに好きな本も、メモにアンダーラインに付箋ばかり。
かつて国語の教師をされていた時代、成績優秀な生徒には、下記のような2つの特徴があると気づかれたという。(必ずしも、それが100%とは思わぬが)
☆ 字が上手で丁寧に書く生徒。
☆ お世辞にも字は上手とは言えないが、書くことを面倒くさがる生徒。
前者は、基本的に勉強することが、苦にならない。整理しながら書いて覚えようとするからだという。字を綺麗に書く意識がなくても、見やすいノートを作るという。確かに、以前東大合格生が使うノートというのが流行っていたことがある。また、東大生のノートは必ず美しいのだという記事も読んだことがある。
また、後者は、まず、ノートは書かない。書かなくても覚えてしまうから、書くことに執着しない、という。ちなみに彼らの勉強時間は短いのだそうだ。
私は、決して成績が良かったわけではないが、上記両方に当てはまらない自称メモ魔である。恐ろしく字は汚いが、昔から、ノート、日記、手帳、走り書きがものすごい。聖書研究でも、聖書に直接書いてしまうから、逆に聖書が読めなくなってしまい、何冊も買い換えている。苦笑 ちなみに好きな本も、メモにアンダーラインに付箋ばかり。
けれどその「言葉のセンス」というものは、生まれつきのものではないだろう。
そもそも「センス」とは、ラテン語の「sentire」という単語が語源になっているという。それは、イタリア語も同じ。「感じる」という意味がある。「感覚」つまり人間の五感や物の見方や考え方、意識、意見なども意味する。
しかし、生まれ持ったものでも、それを磨く、生活環境が必要だ。言葉の場合、本や文章に触れ、話を聞く環境でもいい。まずはインプットできる環境でないといけない。けれどそれはなんでも良いか?となると、まずはアンテナを持ち、その感度が重要で、作動していないと意味がない。
上にも書いたけれど、私は自称メモ魔。好きな言葉、心に響いた言葉はノートに書いたり、携帯電話のメモ残す。そういった言葉を、今度はアウトプットとして引用して書いていると、徐々にそれが自分の言葉、自分の考えになってくるのだ。言葉のセンスがよい人は大好き。そういう人は大抵頭の回転もめちゃくちゃ早い。これまた、大好き。一つ聞くと、10くらいのものが嫌味なく返ってくる人。これまた、尊敬。
ところで、先日、長男は補習校の作文の添削で、>高校生レベルの文章としては、言葉遣いが幼いし、内容が浅いし、表現力も乏しい。と厳しく指摘されていた。確かにそうかもしれない。けれど、在イタリア20年以上の私も、何かのテーマをイタリア語で書くとしたら、意見や考えがあっても、使用する単語も小学生レベルくらいだし、表現力も乏しく、最終的に書く内容も浅くなってしまう気がしてしまう。周りのイタリア人の友人もだいたい私の人間性、考え方がわかってくると、言葉に詰まった場合、常にこういうことが言いたいんでしょ?とよくも悪くも先回りして言ってくれる。「その通り!」といってそのまま、頭の片隅にその言い回しなり、言葉を記憶しておかないと素通りしてしまってthe end。
やはり、妥協せず、そして視覚、聴覚、体感覚...sentire•感覚のアンテナを張ってこそ、言葉のセンスは身につくのだろう。来年の目標の一つにしておこう。
