世界で一番売られている本、つまりベストセラーは聖書だと言う。過去数千年に渡り、読み継がれてきた人類史上最大のベストセラーと言っても過言ではないかもしれない。
我が家には、日本語の聖書が4冊、英語が2冊。イタリア語に関しては、大小、絵画、解説付きを入れたら15、6冊はあるだろう。そんなに持っててどうするんだい?という気もするが、聖書はただ読んでいるならば、単なる書物に過ぎないが、弟子が書いたとはいえ、神の言葉が語りかけてくれば、それは信仰になるのではないだろうか?
今週(11月15日~22日)は「聖書週間」に当たる。聖書週間は、1976年5月の定例司教総会で、全国的に聖書に親しみ、聖書をより正しく理解するための運動として「聖書週間」設定案が当時の宣教司牧司教委員会から提出され、同年11月の臨時司教総会において1977年11月の第3日曜日からの1週間を「聖書週間」とすることが決定されたという。さらに、聖書委員会の発足と同時に委員による活発な啓蒙活動によって、日本のカトリック教会の中でも聖書への関心が高まってきた。
今週(11月15日~22日)は「聖書週間」に当たる。聖書週間は、1976年5月の定例司教総会で、全国的に聖書に親しみ、聖書をより正しく理解するための運動として「聖書週間」設定案が当時の宣教司牧司教委員会から提出され、同年11月の臨時司教総会において1977年11月の第3日曜日からの1週間を「聖書週間」とすることが決定されたという。さらに、聖書委員会の発足と同時に委員による活発な啓蒙活動によって、日本のカトリック教会の中でも聖書への関心が高まってきた。
宗教は胡散臭い、と思う人々も、それでも何かを求めている。教会は嫌い。教会に通う人々も嫌い。でも神様はいるような気がする、という人は、案外多いような気がする。
さて、今週、名古屋教区の教会員がイタリア巡礼に来ていた。企画会社及び添乗員は6月にミラノでお会いした方で、夏には日本でも再開した方。私が通う修道院で是非ミサにあずかりたいということで私も合流した。
さて、今週、名古屋教区の教会員がイタリア巡礼に来ていた。企画会社及び添乗員は6月にミラノでお会いした方で、夏には日本でも再開した方。私が通う修道院で是非ミサにあずかりたいということで私も合流した。
この時期、ミラノでは繊維•アパレル産業関連機械、設備、技術に関する見本市及び展示会が行われており、市内ホテルの値段は少し高め。取れたホテルは、ミラノから90キロ弱も離れたマッジョーレ湖畔のストレーザの街。けれどシーズンオフで予定外にも高級ホテルに宿泊できたようだ。
午前9時45分からのミサ。私は子供たちに昼食を準備し、そのまま長男の懇談会、そして黙想会に直行できるよう準備をし家を出た。が、巡礼団は渋滞に巻き込まれてしまった。ミサの後には、「最後の晩餐」の予約も入っている。街中の観光バスでの移動は、時に、一般での交通機関を使っての移動よりも時間がかかる。ここはカトリック信者。焦っても仕方ない。神様がなんとかしてくださる...と思いたくても、無駄に右往左往してしまう。だめだなあ。
巡礼団到着。早朝にホテルを出発したものの2時間半もバスにゆられ、皆さん、まずは洗面所へ直行。総勢15名の巡礼者、そして在ミラノ、及び近郊の日本人信者が4名参列。そのうちお一人は40年前、日本からいらした司祭の待者をしていたというから驚き。
第一朗読のマカバイ記6:18-31を朗読したが、高齢の立法学者のエレアザルは命を乞うこともできたが、どうしても自分を欺きの行為によって、自分自身に泥を塗り、汚すことはできないと言って、男らしく生を断念し、高貴な模範を示す。第二朗読はルカによる福音19:1-10。ザアカイの物語である。金持ちで徴税人の頭の彼は、罪人というレッテルを貼られる。また、木に登るくらいだから背が低かったことがコンプレックスになっていたのでは?と神父様。いずれにしても、自分の置かれた場所で精一杯、正しいことを行い、貧しい人を大切にしようと決意したことが、イエスに認められる。
旧約聖書及び新約聖書を読んでいると、イエスが命令形で物事を指図する箇所がかなりある。それは人間に呼びかけている言葉だという。聖書の呼びかけに答えるのがまさに「信仰」だと再び神父様。目から鱗だった。そこで心を入れ替えるのが、回心である。
巡礼者の方々に「霊的なお土産」としてその言葉を日本にお持ちくださいとおっしゃった神父様の言葉が心に残った。霊的なお土産か...
その後、巡礼者と共に、最後の晩餐の教会へ出かけ、昼食を共にし、私は一時帰宅。夕方の空手の準備をし長男の学校へ出かけた。忙しいが、体は疲れても心は疲れることはない。
喜びが心を満たすと、目に見える富は不要となる。人々の喜びこそが自分の喜びになる。イエスの眼差しは何を持たなくても良いのだと私たちを安心させる。イエスの優しい声は、喜びや悲しみを共にしてくださる。恐れることはない。大切なのは蓄えた富ではなく、イエスのみ言葉。
神を求める人々が聖書を通して神のみ心に触れ、み言葉に生きる喜びを知ることができますように。
