からし種とパン種 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

聖書の会では、ここ数年「ルカの福音書」を読んでいる。今日の朗読箇所は、「からし種とパン種のたとえ話」であった。偶然にもローマ典礼の今日の福音箇所だったらしい。というのが、ミラノはアンブロジアーノ典礼で、現在はマルコを読んでいるので、気づかなかった。

ルカ13:18-21



「神の国は何に似ているだろうか?それは一粒の芥子種に似ている。ある人がそれを取って、庭に蒔くと、やがて成長して木となり、空の鳥がその枝に巣を作る」。

「神の国を何に喩えようか。それは、パン種に似ている。女がそれを取って、三サントンの小麦粉の中に混ぜると、やがて全体が発酵する」。

芥子種というのは、小さな種の代表格である。といっても、この小さな種から3メートルにも及ぶ木になるというからすごい。ヨブ記に

14.7 木には希望がある。もしそれが伐られたとしても、再び新芽を出し、そしてそこからは柔らかな枝が(活動を)止めないだろう。14.8 たとえその根がそのうち地中で老いることになっても、その株がそのうち土の中で枯れても、 14.9 それでも、水の気を感じることによって、それは新芽を出し、まるで若い木のように大枝を生み出すからだ。 

とある。木は「希望」そのものだ。

そして、からし種のように最も小さなものにも、目に見えない善い考えと、善い行う力が備えられている。それが生まれてじわじわ育っていくのは、教育にも似ている。毎回思うのだが、教育、educationとはラテン語のeducereという言葉が由来。もともとは「引き出す」という意味だ。教育は詰め込むものではなく、引き出すもの。内面的なものが引き出され、それが「自信」となった時、人間は喜びとともに、静かに心の中で、パン種のようにじわじわと大きく膨らみ、やがて美味しいパンとなり、周囲の人々の心も体も満足し、喜びを満たすものとなる。

信仰も同じだ。自分が取るに足らない小さなものであっても、神様の恵みを受けて育てば、素晴らしいものとなることだろう。

Essere per...  誰かのために。何かのために行動してみよう。

今日は長男の16回目の誕生日。
自分が最も小さきものであるということを忘れずに。そして、謙虚な心で育ちますように。母の願い。