教育と指圧 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

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在ミラノ日本人学校の図書館の一部に、補習授業校の児童•生徒の他に保護者も借りられるスペースがある。もちろん日本語のみ。最近、「論語」が読んで見たいと思っで補習校のある日に出かけてみた。図書館は児童•生徒対象だから、簡単に書かれていればいるほど嬉しい。たまたま図書の整理をされていた司書の経験のある方に、「子供向けのってあります?」と聞くと、簡単に「ありません」と言われてしまった。あちゃ~!見た気がしたが、あれは日本の図書館だったか?


さて、子育てに躓いた時、(子供の)体に覚えこませる座右の銘なんぞ無いものか?と現金にも思いついたのだ。なーんだ、無いんだ。...家にあった「声に出して読みたい日本語」のページをめくる。あった、あった。

子曰く、 

学びて時に之を習ふ。亦説(よろこ)ばしからずや。 

朋有り、遠方より来たる。亦楽しからずや。 

人知らずして慍(うら)みず、亦君子ならずや。

孔子は言う。
繰り返し学び、友と学問について話し、人から評価されずとも怒らないのが学ぶ者の姿だ。


吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑はず。五十にして天命を知る。六十にして耳順ふ。七十にして心の欲する所に従ひて矩を踰えず 。

15歳で道を決め、30歳で基礎を確立し、40歳で自信を得、50歳で天職と納得し、60歳で他人の意見がわかり、70歳で節度を失わなくなる。


義を見て為さざるは、勇無き也。

なすべきことをしないのは卑怯だ。


学びて思わざれば、すなわちくらし、思いて学ばざれば、すなわちあやうし。

本を読みあさるだけで自分の思慮を怠ると、物事の道理が身につかず何の役にも立たない。逆に思いを巡らすのみで本を読んで学ばなければ、独断的になり危険だ。


過ちて改めざるを、これ過ちという。
人は誰でも過ちを犯すが、過ちを犯したことに気づきながらもそれを改めようとしない、これこそが本当の過ちである。



ところで、孔子は人生の名指圧師だと例えられていた。弟子たちに常に端的に答える。つまりツボを押さえているということか?

指圧をして貰う際、ツボに入ると指先や頭の先までジーンとくる。うわっ来た~~あ、といった感じがする。勉強でも急に理解できちゃった時、頭の頂点までピーンと来ることはないだろうか? (学生の頃、キリスト教概論だったか、倫理学でそれを「ガバ」と教授が名付けていた。ガバっと理解できるだろうか?笑)

上手に指圧をして貰うと、体がジーンと「響く」。その響きを頼りに、自分で自分の体を調整しようとする。勉強、教育もジーンと響けばそれに合わせて理解しようとするということか?

指圧の心は母心。押せば命の泉湧く。


なるほどね~。ただ、子供に論語が響くか?!というとやっぱり問題外か...