「ごんぎつね」を読んで ~ 人の気持ちになる | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

次男の今週の補習校の課題の音読は、「ごんぎつね」だった。



私も子供の頃読んだし、長女も長男も補習校の授業でやっていたはずなのに、あれっこういう可哀想なお話だったっけ?ちょっと胸が痛くなった。

いつもいたずらばかりして、人に嫌がらせしてたんだから、人に信じてもらえないのは仕方ないよ。狼少年と一緒だよ、と次男。うーん、世の中でも良くある話だ。いつも嘘を付きがちな人は、本当のことを言っても信用されにくいし、同じ犯人による再犯性にも見られること。でもその人が回心していたら?「ああ無情」のジャンヴァルジャンを思い出す...。

ところで、先週まで目の不自由な人の研究として、点字が紹介される単元を読んでおり、調べたことについて作文をまとめる宿題もあった。

目が不自由と言えば、ミラノにはMuseo dei ciechiといって盲人博物館とでも言おうか。だいぶ前に長女と長男を連れて出かけたことがある。

http://blog.livedoor.jp/s_sofia1317/archives/50361740.html


実際、目の不自由な方の案内によって盲人体験をする。あれは、非常によい経験だった。当時次男はまだ2歳弱だったので連れて行かれなかったが、その後何度か連れて行こうとしたが、予約がとれずそのまま。こういう体験ができるんだよ、と話したところ、作文に「こういう所があるそうです。ぼくも行ってみたいです。多くの人が、目の不自由な人のたいけんができれば、人にやさしくなれると思う。」と書いていたが、まさにそう思う。人は、やはり相手の立場に立ち、理解しようとしない限り自分が優位な所から人を見下しがちだ。


最近、世の中をさわがしている「そうだ難民しよう」というイラストにも言えること。「風刺なんだから、人に批判されて当たり前だし、それを自分は受け入れている」と作者はFBで平気で言い切っていたが、人格を疑ってしまう。つい最近、ハンガリーから逃げる難民親子がハンガリーの女性ジャーナリストに足をひっかけられ、ころばされた画像を見た人も少なくないと思うが、上記作者は、警察に追われていた人を、あのジャーナリストは警察に協力したのだから、賞賛されるに価する、と書いていた。

もうこうなると、なぜ難民が命からがら自国を出ざるを得ないのか、理解の時点で想像力がかけている。

イタリアも移民難民が多く、受け入れはするものの、抱える問題も大きい。究極の相互理解は、相手の立場に立って考えること、そして、歩み寄り...じゃないだろうか?

今の政治家たちは、自分や自分の党のことしか考えていないような人が多く、国民の意見に真剣に耳を傾けるような人はいないように見受けられる。国民あっての政治なのに、このような態度は感心できない。

話はもとい、上記「ごんぎつね」の指導事項を読んだら、場面の移り変わりに注意しながら,登場人物の性格や気持ちの変化,情景などについて叙述を基に想像して読むこと」に重点を置く、とあった。また、教材「ごんぎつね」の本質であり,主題でもある「自分のいたずらを後悔し,償いを続けるごんと心を通じ合わせることができない兵十との悲しい交流(すれ違いが生み出す悲しみ)」に迫るためには,登場人物の気持ちの変化を叙述を基にして読むことが欠かせられない、とあった。

この多感な、それでいて想像力が広がり,読解力も伸びる時期に,心に響くこの物語と出会うことは,読解力とともに、人を思う気持ちを更に豊かにしてくれることだと期待したい。