ついに復活前夜祭を迎えた。
この四旬節は自分なりに黙想と実行を意識した40日間だった。もちろんもっとストイックに出来たと思う。そこが弱い人間だ。それなりの妥協と言い訳もある。聖人への道へはあまりにも遠い。苦笑
それでも恵みの多い時であった。今回ほど復活前夜祭のミサの典礼が美しいと感じたことは。ない。全てのことに感謝と思えるからだ。
ミサ中の洗礼式も素晴らしかった。珍しく夜中の乳児の洗礼と19歳の青年の洗礼式があった。後者は長女の中学時代のクラスメート。ここ数年オラトリオで小中学生の面倒や小児麻痺の少年の車椅子を押す姿を見て来ていたので、まだ未信者だったとは思いもしなかった。
「彼はアルバニア人だから。」皆が同じことを言う。アルバニアは国民半数くらいは、イスラム教徒で、カトリック教徒もいるはいるが、たいていのクリスチャンは東方正教会系らしい。
ところで以前カトリック信者になった時、「なぜ仏教徒や神道ではなくカトリックだったの?」と聞かれたことがある。聞いて来られた方も在ミラノ、多分50年以上の邦人女性のカトリック信者。彼女もミラノで洗礼を受けている。なぜって日本にいる時は、実家にそれこそ仏壇もなく100%無宗教の家庭に育ち、神道は神社に行く程度、お寺さんも法事で関わるくらいのこと。プロテスタントとの関わりはあったものの、多分イタリアに渡ってこなければカトリック信者になることもなかったかもしれない。それを「運命」というか全て「神様のご計画」だったのだと思うのは、その人次第。
受洗者マリオの代父つまりゴッド•ファーザーは上記小児麻痺の少年の父親だった。彼ら親子を模範として学ぶことが多かったのかもしれない。そう思うとじんときた。やはりクリスチャンとして、人の模範にならないと、と思う。それが、宣教。それが信仰。
ミサは、洗礼式があったので2時間ちょっと。今年は9時から開祭だったので、早く終わった。私の受洗式は夜中の1時過ぎで、4月の半ばだったのに、寒くて寒くてたまらなかったことを記憶している。しかも、頭に水を浴びたときは、ひえっ!!思わず声をあげそうだった。
復活前夜祭の洗礼式は、思い出深い。
こちらは、ヘンデルの「見よ、勇者は帰る」。"Cristo è risorto, alleluia"「キリストが復活した。ハレルヤ」という言葉で始まる聖歌でもある。
ミサ閉祭には、この曲がラテン語で歌われた。
「闇」と「光」。「死」と「復活」。
空の墓を信じるのは、信仰の力。復活の恵み。
恵を運ぶ人となれますように。
