
イタリア人と国際結婚をしている人は、イタリア人のご主人がカトリック信者で、妻の自分が信者でなくても子供にカトリックの洗礼を与え、従ってカテキズモ(公共要理)のクラスに行かせている、というケースが多い。
先日ある日本人妻から興味深い話を聞いた。子供に「ママ、お祈りするとき、何を(または誰に対して?といったか忘れた)祈っているの?」と聞かれたという。だって、なぜ人のために祈る必要があるの?みたいなことを言っており、逆にへ...そういう発想もあるか?と驚いた。別に彼女が意地悪だというわけではない。あまりにも素直だっただけに驚いたのだ。
カトリックのミサでは"Preghiamo"祈りましょう、といっては立ったり座ったりする。今でこそ、慣れたが、いろいろな物事に対し祈るのだ。
祈りは、「苦しいときの神頼み」とはいうが、苦しい時、困った時にだけ祈るものではない。今、命を頂いていることにに対する感謝、毎日の糧、自然の恵み、ただで頂いた全ての恵みに感謝。そして、それは全て神の恵みと考えるから神に感謝する。
また、祈ることは、神に許しを願うことでもある。これほどまでの恵みを受けたにもかかわらず、神を忘れたり、自分勝手に振る舞ったりしたことを思い出し、神におわびする。
ある宗派では、聖人や誰かの取次を願うことはおかしい、聖書には書かれていない、といっている。時に、人は自分が正しいと思っているので、自分を正当化し、自分と違う意見の人を、たたく傾向がある。違う宗教が互いに排他的な意見を主張しあうのは、理論、教理の違いや矛盾を和解させ合うことさえ不可能になってしまう。私たちは、人と対立することがあっても、控えめに、相手を尊敬すべきである。
ところで、次男は祈っても何も変わらない、といってたびたび文句を言う。確かに、祈りの効果はすぐには現れない。行為の結果はお礼の言葉や金品で返ってくるが、種をまいて花が咲くまでに時間がかかるように、祈りの効果が現れるまでには時を要するものもある。
私たちはひとの助けを借りて生きているのですから、自分のためにだけ祈っているのでは足りません。それに、人のために祈らなければ、だれがあなたのために祈ってくれるでしょうか。(byヴァレンタイン•デ•スーザ神父)
先日の「枝の主日」のミサでは、パパ様はいろいろなことに心をかけてくださった。ドイツ航空会社の旅客機墜落事故の犠牲者、遺族のために祈り、また捜索に当たる人々を励まし、25日の「神のお告げ」の祝日には、今年の10月に「家庭」をテーマにして開かれるシノドスのために祈り、またイラクのキリスト教家庭やナイジェリア北部の家族のために祈り、アヴィラの聖テレジア生誕500周年を記念した28日には、世界中のカルメル会員と共に世界平和のために祈った。日本の原発にもお祈りくださっている。
はじめは、形から入ってでもいい。いつか必ずそれが習慣化し、生き方となるよう努めましょう。人との苦しみ、そして喜びに寄り添える人となれますように。
この聖週間が人々のために祈る日々となりますように。