四旬節 ~ マルタとマリア | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

四旬節に入り、普段のように予定という予定を立て続けに入れないよう極力調整している。

心穏やかに過ごしたい。1日家にいて誰とも接せず、好きな編み物をして、本を読むことに耽られたらどんなに楽だろう。

しかし、実際はそうもいかない。私だって常にやることはある。イタリア人のように、働いていなくても、掃除やアイロンがけをしてくれる人などいないのだ。次から次へと子供達が帰宅して、お昼の準備。食べたら「はい、ごちそうさん」でいなくなるか、ドタキャン。子供達も一人でいればおとなしいが、兄弟たちが戻ってくると、何かと小競り合いが始まる。夫も帰宅し、靴の脱ぎ方、ソファでごろんとされ...、何かしら気になり、心に波風が立つ。一人にさせてくれー!!

けれど、家庭にしろ、職場にしろ、人間関係がなければ、心の成長は成り立たない。「うざい」と言って、部屋も心もシャットアウトするのは簡単だが、人間がまともに育つには、やはり人間同士の心と心のぶつかり合いも必要だし、家族、仲間だからこそ「与え合える」こと、「愛」という相手を大切だと思う心、そして「許し」というものがなくては、成長できない。私はペットは飼ったことがないので、ペットを家族の一員として数えるのかどうかなんとも言えないが、人間だけが、これらを経験してのみ成長できるのだと思う。

だから生きていくためには、人間関係がどうしても必要で、しかも表面的なものだけではなく、時に人とぶつかることも修行の一つだと思う。けれど頭ではわかっていても、やはり心穏やかに過ごしたい。時に、人間関係が煩わしくなる。

ところで、四旬節に入り、3日連続の黙想会が始まった。昨年までは夜の9時からのものに参加していた。けれど、子供達にご飯を食べさせ、少なくとも次男だけはお風呂に入れ、片付けてから出かける。教会についた途端にどっと疲れが出て、黙想会が始まった途端にうとうと状態。最終的に自己嫌悪に陥っていたが、今年は主任司祭の計らいにより午後と夜の2回ずつ行われるようになったので、隣接している小学校に通っている次男の校長に、黙想会に出席するため、次男のお迎えが遅れる場合は、ドッポ•スコーラ(リクリエーションをしながら学校に居残りお迎えを待つ)に残すことに許可を頂き、午後3時半からの黙想会に参加し始めた。

第1日目のテーマは「マルタとマリア」(ルカ10:38-42)

  マルタとマリアは対照的な姉妹。イエスの訪問にあたり、マリアはイエスの足元に座りひたすら教えを最優先に聴くが、マルタはもてなしとその準備を最優先する。ずっとマルタが気の毒だと思っていた。やるべきことをしているのに、と。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」けれど、気づいた。「マルタは私」だ、と。もちろん、もてなすことに心を配るのは大切だ。

それでも、「何をした」というよりも「どんな心でしたか」、相手の向こう側、いや自分と相手の間に神様がいると意識しなくてはならないだろう。どんなに大きな仕事をしても、感謝の心がなければそれは虚しい。賞賛されたいとは思っていないが、いらいら文句を言っているのは、日常茶飯事だ。どんなに小さな、つまらないと思われることでも、感謝し、静かな心で、そして愛の心で果たしたのであればそれで十分だろう。


画像は、フェルメールの「マルタとマリア」(1655年)フェルメール23歳の時の作品。現存するフェルメールの作品の中では珍しくイタリアルネサンスの香りがする。この頃のオランダではこのような歴史画の評価が高く、多くの作家がイタリア絵画の影響を受けていたそうだ。この作品では赤い服のマリアがキリストの話に聞き入っている。食事の用意に忙しい姉のマルタ(白い服)がそのことについてキリストに不平を言うと「マリアは良い方を選んだ、それを取り上げてはならない」と諭す場面。あ~やっぱり私はマルタだ。