以前、大好きなヴァレンタイン神父様がこうおっしゃっていた。
「心を開いて素直に透明な心であるがままの自分を見つめて生活してください。それが恵みです。」と。また、「様々な場面でわたしたちは神様からの恵みをいただいています。わたしたちは恵みによって毎日生かされているのです。」とも著書に書かれている。
今朝、久々エヴァに会った。エヴァは次男の幼稚園時代のクラスメートのベビーシッター兼お手伝いのフィリピン人のおばちゃん。年齢的にはきっと私とそんなに変わらないのかもしれないが、すでに幼稚園へ通っている孫がいる。その孫が次男のいる教会系の幼稚部にいるので、犬の散歩をさせながら孫の様子を見に来ており、たまに会う。考えてみれば昨日も彼女に会ったのだが、2日続けて彼女は、ベビーカーにいっぱい本を積んでおり、学校に来ていた。
どうしたの?と聞くと、仕事先の子供の本がやたら増えてしまったので、処分して欲しいと言われたけれど、捨てるのはあまりにも勿体無い。少し孫用にもらい、後の残りは、学校に寄付することにしたよ、という。まあそれが懸命だろう。
それから、今の時代は、ものがあふれているからね...という話になった。小さい頃から、欲しいものが与えられ我慢することがなくなった。私の時代は、本当に貧しかった。学校に行くにも教科書なんて買ったことがない。鉛筆だってこんなにちっちゃくなるまで削って使ったといって指先で示してくれる。でもね、誕生日のお祝いもなかったけれど、欲しいものさえなかったの。親からのプレゼントはクリスマスだけだった。しかも毎年母親の手作りの刺繍入りの洋服だったけど、これがどんなに嬉しかったか...とにこにこしながら話してくれる。ちなみに、彼女はカトリックでもプロテスタントでもない宗派のクリスチャンらしい。生活は厳しかったけど、いい時代だったとエヴァ。今も生活は楽じゃないけどね、あの時代の苦しさに戻ることがあったとしても喜んで受け入れるよ。家族が一致しないとね!ハハハ...!!頭のてっぺんからぬけそうなキンキン声のエヴァであるが、いつも明るく話すので、彼女の苦労話もニコニコして聞けるのだ。
一般的に、生活のレベルというものは、上げることは可能だが、一度いい思いをしてしまうと、なかなか生活レベルを下げるのは難しいという。だったら、初めから生活レベルを上げなきゃいいじゃないか?と思うが、人はついつい見栄を張ったり、欲が出てしまうんだな。個人的には、家も家具もこだわりがないので、豪華な生活、贅沢な生活というのには、それほど興味はない。そこそこで十分。それよりも幸福のレベルという方が大切かもしれない。それは「自分が幸せだと感じる」基準だ。
今朝、今年初めての聖書のクラスがあったが、「闇」と「光」の話が出た。光はある意味、暗いところにいて、その価値がわかる。常に明るいところにいたら、その明るさに慣れてしまい、価値を忘れてしまうかもしれない。それは幸福度にも通づることがあるのかもしれない。幸せもそれが当たり前になってしまうと、幸せでなくなってしまうものなのかもしれない。
日本は、外国に比べると、危険度が少なく、平和に過ごせることが普通なので、今回のテロ事件のような悪行非道な事件が起きると、あー日本で良かったと思う人もいるのではないだろうか?自分の努力とは関係なく、たまたま生まれた場所や環境の違いだけで、人生、人生観が全く異なってしまう。
話が逸れてしまったが、今朝エヴァの話を聞いてはっとした。当たり前のように思ってきた生活、そして存在する幸せに感謝しなければ、今を幸せとは感じられなくなってしまうと反省。
いただいた恵みを数えてみよう。いただいたものに毎日感謝すれば、生き方も変わるかもしれない。
毎日、私たちが出会う人々、出来事、生活は神様の贈り物、と考えると接し方も変わるかもしれない。よりよく生きることが自分のためになり、また神様への贈り物にもなるであろうから。