ソリダリエタ | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

イタリア人は【団結,連帯】という意味で,よく「ソリダリエタ」という言葉を使う。他人の考えや行動などに心から共鳴,同感することだ。決して義務ではない。

日本の震災の時も,多くのイタリア人が日本の為に何かしたいといって来てくれた。それは,私たち,【日本】に心を寄せてくれたからであろう。

この時期,何かとソリダリエタの為に,物質,そして知恵を出し合う協力を求められる。


今日は次男の学校では,地域の貧しい人のためのソリダリエタのミサがあったという。保存のきく,食料寄付を求め,それを捧げものとしてミサに奉納され,最後に地域の人へ配布されるようだ。また,ミラノの移民やロムを支援している友人の一声で,彼らが出来る手作業,またはそれに新たに手を加えることで,収益にならないか,知恵を出し合う集まりがあった。私は,体調が悪く参加できなかったが,この時期,忙しいからこそ,何かをけずり必要としている人のために心を捧げましょう,と主催者。

また,来週末,ミラノカトリック日本人会のクリスマスミサでは,クリスマスバザーが行われ,今回の収益は,事務局になっている修道院が支援している里親プログラムに参加しようと考えている。特に需要の多いのがミャンマーだそうだ。月々20ユーロ,年間140ユーロあれば一人の子供がサポートできるという。学校,医療,衣食住なども含め年間240/250ユーロあれば,十分に支援出来る。次男の学校の1ヶ月の授業料はこれより少し下回るが,大抵の私立校は月々この2倍も3倍も授業料がする。この差は大きい。

わたしたちのすることは大海のたった一滴の水にすぎないかもしれません。でもその一滴の水があつまって大海となるのです出典:『マザー・テレサ 愛のことば』、女子パウロ会

この言葉は,私たちはどんなに小さな自分でもよい。力を合わせることが大切なんだと教えてくれる。

ところで,バザーをすることに関し,家でいらないものを出すなんて失礼。いつもお金を出す人が同じでは意味がない,と批判をする人もいる。けれど,そうだろうか?自分には必要がなくても,それを必要とする人もいる。それを喜ぶ人もいる。けれど,一つ言えることは,豊かさの中から施しはしないこと。何か自分に必要なものを犠牲にして,痛みを感じながら人に与えるのが大切なんじゃないだろうか。そうすれば,同じ痛みを通じて,相手とつながることが出来る。鶴の恩返しだな...笑

またこの時期,歳末助け合い運動とでもいおうか?あちこちでソリダリエタという言葉で,何かが売られ,それが寄付される形になるものを見かける。それがポインセチアの植木鉢だったり,クリスマスツリーのオーナメントであったり,けれど,それがどこに送られるかきちんと確認することが重要。以前,ユニセフの寄付の依頼が直接家にきて,振り込み用紙を渡されたが,私は私なりの奉仕をしていますから,というと,一日コーヒー代を節約すればいいんだ。それさえもできないのか?と逆に,こちらが冷たい人間のような言い方をするから驚いた。寄付というのは,共感,心を寄せた物事にすべきであろう。人に押し付けるものではない。 
  
人は痛みの共感により,愛を実践できるのではないだろうか。とはいえ,ぬくぬくしていると,寒さや痛さも忘れがち。痛みへの共感と共生ができる世の中にしたいもの。