現地校はそろそろ学年末で、補習校は新学期。
子供たち3人x2校だから、かなりハード。
昨日、長女の高校の学級懇談会へ出かけてきた。
すべての学科の教授たちが、今年度後期の様子を話してくれたが、どれも否定的なことばかり。言うだけでいって、「Pesante!」重くてうっとうしいと豪語する。小さな良いことに目をむけて、それを汲むような言葉は一言もない。こちらの方が滅入って、気分が悪くなるわ。
まあ教えるほうも、やる気がないわけではなくとも、教授軍の精神をゆさぶるような態度をされれば、平静ではいられないだろう。だからといって、文句をいわれ、保護者が生徒たちに「やめなさ~い」といって直るようであれば、はじめから問題など起こるはずがないのだ。
であれば、少しでも飴と鞭でうまく、駆け引きしながも授業ができないものか?と思うのだけれど、そうでもないらしい。
確かに、私ももっと高校生のころ、妥協をせずに勉強していたらな・・・と思うけれど、だからといって、その後に進んだ道を後悔しているわけではないので、それは結果的によかったということだろうか?
結局親にどうこう言われて、決める人生だと、どこかで躓いた時に、きっと誰かのせいにするだろうし、ある年齢になれば、それは個人の責任。親に報告だけならともかく、文句を言われても「申し訳ありません」としか言いようがない。
もうええやん。
先日面談した教授に「もう結構ですよ。無理だと思うのならば、娘を留年させてください。本人も甘く見ているのでしょう。どこかで、気付かないといけないのだから、ぎりぎり進級させて頂くのではなく、くぎりをはっきり付けて落とすことも必要です。」というと、驚かれた。
どうなるだろうね・・・
明日は、補習校、長男と次男の授業参観及び学級懇談会が同じ時間にバッティング。しかも今年は長男のクラスの役員。あ~。
「私が願うのは」
私が願うのは
危険から護られるのではなく
危険のさなかで 恐れないことです
悲しみのどん底
心のはげしい痛みの中で
慰めてもらうことではなく
悲しみを克服し 勝利をうたうことなのです
逃げ場がなくなった時も
勇気を失わせないでください。
世間的にも大失敗し
挫折の連続に遭っている時も
その害が取り返しのつかないものだと
考えない恵みをいただきたいのです
あなたが来て私を救ってくださる・・・
これは私は願っていません
私が願うのは のりこえてゆく力です
あなたは私の荷を軽くしたり
慰めてくださらないで結構です
ただ 私が重荷を担う
その力をお与えください
喜びの日に
謙虚に頭を垂れ
私はあなたを思い あなたの存在を認めます
暗い悲しい夜
失意以外、何もない夜にも
ああ 決してあなたを 疑うことがありませんように
(タゴール『ギタンジャリ』より)
子育ては本当につらい。
思い通りにいかないもの。
それでも、「こんな筈じゃなかった」と思ってしまうようなことを、常に受け入れ、大いなるものの恵みを信じ努力する時、人はそれらを乗り越える力を与えられるのだと信じたい。