ついに5月に突入した。
復活祭後、雨の続くミラノだったが、やっと晴れた。そして、いきなりすごい綿毛!!とはいえ、復活節、新緑の季節。ご復活されたイエスから、新しい命を頂き、この月を過ごしたいもの。
ところで、お隣の教会は毎年5月1日に初聖体のお祝いをする。次男のクラスメートの半分以上がそこの教会に通っており、初聖体を受けるので、今朝一緒にお祝いに駆けつけた。
10時半。教会の外は人があふれかえっている。ぎりぎりセーフ?!と思ったら、中から聖歌が・・・ミサはすでに始まっており、中に入れないのか?敢えて入らないのか?そういった群集だった。
中は、すでに座る椅子などなし。お御堂の端に立つ。長男がその教会で洗礼~堅信まで受けたし、聖歌も大体わかる。聖歌集がなくてもほとんど歌えたが、周りががさがさ・・・どうも気にかかる。
イタリアでは、洗礼、初聖体、堅信はファミリーの集合時。日本のお宮参りや七五三のように、それも宗教のひとつである神道のお祝い事であれ、ひとつの儀式、その子の、健康や成長を願うのみで終わればいいが、さすがにカトリックのお祝いは健康とか成長とか上っ面の部分のお祝いとは違う。
そちらの教会では、代父母は正式な結婚をした人のみ、離婚、別居した人は無効、などとはっきりいっているが、どこまで守られているのだろうか。また、寄付なども半強制で封筒を皆もらってくる。が、たとえば私が通う教会では、寄付など強制しようものなら、人はいなくなる。好意のある人が出してくれればいい・・という考えで、教会によってまったく異なるのだ。
いずれにしても、親の関係とはあい異なり、子は鎹。離婚しようが、別居しようが、元夫婦、元親類も皆この時に集まるが、他人でも、何気に雰囲気でわかってしまうのが面白い。ミサ中であろうが、いきなり立って抱き合って挨拶、話始める。小さい子供はじっとできないからあっちへ行ったりこっちへ行ったり。それは仕方がないのだけれど、あまりにも大声を出して泣き出したら、外へ出ようよ。
ところで、今日の朗読は、すべて、初聖体を受けた子供たちが、読んだ。朗読箇所は、ヨハネ3章。7-15節。「イエスとニコデモ」の部分。『あなた方は新たに生まれねばならない。』という箇所。その部分を司式司祭は、9-10歳の子供の目の高さで、ニコデモがどういう気持ちだったのだろうか?イエスは何を言いたかったのだろうか?とたずねる。初聖体に向けて、昨夜興奮して眠れなかった人?または十分眠れた人?といって手を上げさせていてかわいらしかった。
主任司祭は60歳代くらいだろうか?僕も初聖体の記念日は5月1日です。キリストの御体と御血にともにあずかり、聖霊によってひとつに結ばれます。と話された。
そこで、次男が横から、「ママは毎日、ワイン飲んでるよね?それってキリストの血を飲んでること?」と聞いてきた。私は吸血鬼かい?! また、「ママは、教会に毎週ミサのために来ているんじゃなくって、キリストの体を食べに来ているの?」と聞くので、笑ってしまった。私は単なる食いしん坊かい?!爆
最後の晩餐で、キリストは、ご自分の死と復活をひとつの記念祭儀として定められた。それを「ミサ」という。それが、2000年日々行われてきているのだ。最高の祈りといわずなんと言おう?
「僕も食べてもいいの?」というので、洗礼を受けていないし、勉強をしないと初聖体は受けられないんだよ、というと「味がなさそうだからな・・・」という。まっいつか見えない力に導かれる時を待つしかない。いずれにしても、ご聖体は、私達信者に霊的な糧として命と力にもなる。まさに、アンパンマンだ。笑 とはいえ死者の冥福と罪の償いにもなるという。
聖体の秘蹟のうちに、御父と聖霊と共におられるイエス、あなたを礼拝します。<br>
ところで、カトリック教会では、5月は、「聖母月」と呼ばれている。天使から受け取った神さまのメッセージを「お言葉の通りになりますように」と素直に受け容れた乙女マリアは、イエスを、そして弟子たちを優しい眼差しで静かに見守り、共に歩み、そばにいて支え続けた。聖母マリアに倣い、また、聖母月の5月は、マリア様と共に歩む存在を身近に感じつつ、子供たちと歩んでいきたい。
初聖体のミサは、聖母マリアと共に歩む<Santa Maria del Cammino>を歌い閉祭した。https://www.youtube.com/watch?v=EyIpjjhjyII
