昨日在ミラノ補習授業校の卒業式・修了式が行われた。
国歌斉唱、学校長、理事長、総領事, 在ミラノ日本人学校校長の式辞、祝辞と続く。さすが日本式。立ったり座ったりお辞儀をしたり、イタリア人のお父さんたちは、周りに合わせる。全く関係ないけれどカトリックのミサも立ったり座ったり、よーわかりまへんなーと言われたことがあるが、同じ感覚?!^o^
小学生の頃、月曜日の朝の校長先生のお話は惹きつけられるものがあったことを記憶している。こちらの学校ではそう言った機会がない。
たとえミサに出ても、オメリア(お説教)はイタリア語でも日本語でも、聞き入ってしまうようなものもあれば、内容が、というよりも話し方、話す言葉、単語によって難しすぎて何を言っているかわからない時もある。特に子供にとっては退屈極まりないことになってしまうだろう。ちなみに私のパロッキアでは、ミサのオメリアは大人と子供に別れている。
さて、話はそれたが、さすが日本人学校の校長先生の式辞は、シンプルで子供にも分かり易かったと思う。
海外で母語を2つ持つ児童・生徒にとって国語教育は、非常に難しい。「お宅は日本人家庭だから日本語は問題ないでしょう?」とよく言われるが、それはとんでもない間違いだ。日本語は家庭内でしか使用しないし、一日24時間中起きてから寝るまでの間にどれだけ家族の会話があるのか?しかも内容なんてものは、学校のこと、友達のことなど大抵決まった内容。JSTVをつけているわけではないし、まず日本語の本も読むと言っても高が知れている。耳から入る言葉は、私の言葉がほとんど。
先日、作文指導の「言葉の森」のHPでは、意欲の出発点は、「知る」ことにあるとあった。現代の子供たちは、競争やご褒美という直接的なもので意欲を強化されがち。でもものでつったり、競争に勝つ、結果を残すための勉強は、あまりにも他人の視点に左右されたり、ものを大切にしない傾向を作り出してしまうのではないだろうか?
実際、知り合いで、こんだけ本を読んだら、ある人形のフィギュアを買ってあげるという約束をしている親子がいた。その人形がたまりにたまってしまうと、子供は飽きてしまい、もっていなかった我が家の子供に横流し。子供は喜ぶがなんか違うんじゃないかな・・・私は喜べなかった。
ところで、先日学年末テストの結果があまり人も悪かった長女。授業の合間の休み時間に私に、自分はクラスの平均点を下げるだけ。お金と時間の無駄。やめさせてほしい、とメッセージを送ってきた。もうがっくり。なぜあきらめる?なぜ努力しない?夫も我が家は日本人家庭だ。いつ、なんどき帰国するかもわからない。日本語ができない日本人でどうする?絶対学校は辞めさせない!と激怒。は・・・
海外での日本語教育は、もちろん本人の努力も必要だが、家族と先生のサポートも必要。日本語とどう向き合うか?感じる心、それを自分の糧にして歩むように、と日本人学校の校長先生もおっしゃっていた。
卒業生たちの答辞、特に高等部の卒業生の答辞に変わる歌は「1年になったら」の替え歌「大学生になったら」。この補習校生活をふりかえっての詩も楽しかった。先生ありがとう。お父さん、お母さんありがとう。他人様のお子さんでも毎年涙が出てしまう。しかも、来年は長女が高3、長男が中3。想像しただけでもうるうるしてしまう。まっその前にきっと親子の激しい葛藤もあるに決まっているが。
継続は力なり。
基礎の上に、どんな建物が建つだろうか?
基礎の上に、どんな花を咲かせるだろうか?
それはすべて自分次第なんだよね。がんばれ、子供たち!