葬儀に際し | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

イタリア生活も長くなると、いろいろな交流関係の絡みから、葬儀に参列する回数も増えてきた。下手したら、以前日本で参列したことのある仏教の葬儀の回数を超えるかもしれない。 

イタリアの葬儀は、殆どカトリックの教会で行われる。(が、昨日ある葬儀に向かう途中、赤や黄色の共産党の旗が飾られ、音楽に送られてでていく葬儀を見かけた。あれはなんだったのだろう・・・)葬儀は、通常のミサのように、司祭によって司式され、お説教もある。近親者による亡くなられた方への手紙や挨拶がされることもあり、その方の存命中の人柄を知ることもできる。 

ところで、年末年始から、訃報が相次いでいる。 

Itamaの元メンバー、聖歌隊のメンバーのご家族などなど。 

昨日も、知人の葬儀に参列した。享年57歳。20年以上皮膚がんを患っていたそうで、年末年始に、肺炎にかかり、それもなんとか治癒できたか・・・と思っていたら、最後の最後に心筋梗塞で急死されたという。なんと本人はもちろん、家族もつらかったことか。 

葬儀は、教会に人が入れないくらい、すごい人だった。 
司祭のお説教も、友人、家族のメッセージもどれも心のこもった温かいもので、皆涙を流し、鼻をかぐ人の多かったこと。 

長く患われたとはいえ、よい家族、よい友人に囲まれたことを知れたのは、1つの救い。 

人の訃報を聞くたびに、その人はどのような人生を送られたのだろう、と考えてしまう。また、葬儀に際し、自分自身「生きる」という意味を考える人も少なくないだろう。 

人が亡くなることは悲しいが、その人が、この世での愛にみちたまなざしや人柄、その人がしていた事、またはしようとしていた仕事や物事のもっていた意味を思い起こし、覚えておいてあげることの大切さを考える。また、そういう何かが、自分の心の中に残っている限り 、その人は私たちの心の中から消えることはない。 

逆に、生きていても、死んだも同然の人がいるがごとく、死んでいても、魂の生きている人がいる。その人がいくら長くどこかで生きていても、自分には何のかかわりもない人もいるが、その人がたとえ肉体的に死んでいても、今も私たちの心の中に強く生き続ける人もいる。 

「生きる」もとい「生きていく」とはどういうことなのだろう? 
「生きる」、「生きている」と「生きていく」とは似て大きく非なるもの。 
「生きていく」には力や勇気、そして愛情も必要だろう。金銭、物品で育つものでもなければ、過保護やスパルタ教育で育つものでもない。

また、見えない先のことを信じ、生活すること、それこそ不安なことはない。けれどそれが〈希望〉なのかもしれない。見えないことに命をかける。それを貫き通すのが、希望。 

しっかり、生きていこう、と思った。