宗教の時間 ~ 無知の知 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで33年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

Facebook上である署名運動がまわっており、びっくりすると同時に残念に思ったことがある。(しかも、その殆どがイタリア人の近い友人であり、直接ぶつかることはないが、教会嫌いの人たちばかり) 

イタリアの公立の学校で、宗教の授業をやめるように、という嘆願書だ。 

理由としては、 

*イタリアは世俗国家であって、特定の宗教を公立の学校で強要すべきではない。 
*宗教の教師は、他の教科の教師と違って、国の教育要請を受けているわけではない。 
*カトリックは、他の教科に対し、教育的な衝突を生じさせる。 
*義務教育における習得教科として、カトリックは、唯一有益ではない教科であり、一般文化としても有益ではない。 

・・・などなどである。 

ついでに書けば、情報科学や伝達などの分野においては、恥じるほどに基本的なものが欠けており・・・とあったが、あれは宗教の授業に時間を割いているからいけない、ということなのか?それこそ、恥じるような意見だと思うが・・・。 

私としては、以前にも書いたが、「宗教」の授業と「信仰」は全く別物。知識として得てどこが無駄になるのか?と思う。たしかに、宗教の授業を受けないものは、別の授業を受けるとはいえ、きちんとプログラムが組まれておらず、自習になるケースも多いようだ。となると、好き勝手な事をし、逆に無駄な時間だということだろう。でも、それは国の決定の問題ではなく、学校のプログラム、そして教師の人間性の問題だろう。あまり、期待できない、という事実もあるが。 

逆に、教会離れしている長女なんて、宗教の授業は非常に興味深いという。一時は大学で神学を学びたいとまで言っていたくらいで、もちろん、教師の影響力も多いだろう。彼女の高校の宗教の教師は、副校長でもあり、非常に人間的にも評判の良い方。授業も面白いようだし、引き込まれるものがあるのかもしれない。 

ところで、イタリアは、殆どが幼児洗礼なので、気づいたときには、カテキズモ(公共要理)がはじまり、初聖体、堅信・・・というレールが引かれてしまっているが、それをどうこう批判するのではなく、その後の信仰生活は、家庭の祈りもあるが、やはり本人の「悟り」がなくてはならないものだろう。 

イタリアは、先進国一般に見られるように、教会離れが進んでいる一方、宗教を求めている人も多いと思う。心が乾ききってしまい、何かを求めているのは、確かだと思う。新興宗教もかなり増えているようだし、また、心理学や精神医学の発達により、心の悩みや問題を抱える人々は、精神科や心療内科や心理カウンセラーの門をたたくようになったという現実もあると思う。宗教によっては、その宗教以外の宗教行事、式典以外に参加することを禁止しているものも多いようだから、宗教の授業なんてものは、とんでもないのかもしれない。それが現在の現実の状況だということを踏まえ、国としては、宗教の授業はやめるべきだということか? 

聖書は読むものではなく、味わうもの。 

神様からのメッセージと感じられれば、それは信仰心であり、単なる歴史書とだけ思うのなら、それは、やはり「宗教」という枠だけにとどまっているのかもしれない。それは、誰も強制できるものではないし、悟りは人に教えてもらうものではないだろう。 

ただ、素晴らしい音楽や絵画、建築物を見るにしても、キリスト教というバックグラウンドを知らない限り、楽しみ方は何倍も違う。もったいないと思うのは、私だけだろうか。 

とにかく、宗教と信仰心は違う。 

「無知の知」は向上心につながる。自分が絶対だと誤解すると、争いごとや新興宗教に走ってしまうのではないだろうか。 


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