共に歩む | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

世界中で自然災害が続いている。今度は、イタリアのサルデーニャ島各地で18日、低気圧による豪雨で川が氾濫し、家屋や道路が水に漬かるなどして、16人が死亡、2人が行方不明となった。 

イタリア政府は非常事態宣言を発令。被災地支援のために2千万ユーロ(約27億円)を拠出することを決めた。 

世界の過去10年間の自然災害による経済損失は年2000億ドル(約20兆円)弱で、このうち約4分の3は異常気象が原因であるという。 

苦難の中にいると、神も仏もない、と誰もが思うことだろう。また、全能の神が天地創造したのなら、なぜそこに、悪、や不幸、災害があるのか・・・と。 

もちろん、自然災害は、神の意志、罰ではなく、その中にある戒めや、導きをみつけたいと思うが、直接的に何もできなくても、自然災害の被災者の人々の苦しみ、悲しみ、希望に私たちの祈りが添うことができれば、と思う。 

昨日、心のお薬<Misercordina>について書き、『哀れみ』という言葉について考えたが、イタリア語には、別の「哀れみ」という言葉に<Compassione>という言葉があることを思い出した。語源は、<com-> 共に、<patire >耐える、苦しむ、味わう、体験する。漢字の偏と左右の組み合わせからなる漢字の意味に似ているかもしれない。 

『共に』歩み、『共に』喜び、『共に』苦しむ。 
とはいえ、意外に、この『共に』というのが難しい。 
上から目線になっていたり、優越感、劣等感を感じていないだろうか? 

カトリックのミサの奉献文の最後に、「キリストによって、キリストと共に、キリストのうちに・・・」という言葉がある。イタリア語では、Per Cristo, con Cristo e in Cristo,....となるのだが、上記<よって>は<ために>という意味合いにもなるだろうか? 個人的には、イタリア語の方が心にしっくりくる。 

宗教関係無しにでも、誰かのために、誰かと共に、そして誰かの心のうちに・・・ 

意識をすれば、誰もの生き方をもが変わるかもしれない。 


http://www.corriere.it/cronache/13_novembre_18/ciclone-cleopatra-sardegna-ginocchio-fdccfc8e-50a1-11e3-b334-d2851a3631e3.shtml