パパ様ツィッター~ 6月 その① | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

 
6月1日
In quest’Anno della fede, chiediamo al Signore che la Chiesa sia sempre più una vera famiglia che porti l’amore di Dio a tutti. 信仰年にあたり、教会は常にすべての人に神の愛を運ぶ真の家族であるよう主に願いましょう。


6月2日
La logica mondana ci spinge verso il successo, il dominio, il denaro; la logica di Dio verso l’umiltà, il servizio e l’amore. 世間の論理は、我々に成功と、支配、そしてお金を求めようとさせますが、神の論理は、謙遜、奉仕、そして愛を求めるようにと導きます。


6月3日
A volte sappiamo quello che dobbiamo fare, ma non ne abbiamo il coraggio.
Impariamo da Maria la capacità di decidere, affidandoci a Dio. 時にやらなくてはならないことがわかっていても、それをする勇気がないときがあります。神を信頼し、物事を決断する術をマリアに学びましょう。


6月4日
Cristo ci guida a uscire sempre di più da noi stessi, per donarci e servire gli altri. キリストは、自分自身からもっと抜け出し、他者に自分を与え奉仕するよう導いておられます。


6月5日
Custodire il creato è un’indicazione di Dio data non solo all’inizio della storia, ma a ciascuno di noi; è parte del suo progetto. 被造物の保護は、歴史の初めにのみ示された神のご意向ではありません。それは、神のご計画として、我々各々に示されたものです。


6月7日
Il consumismo ci ha indotto ad abituarci allo spreco. Ma il cibo che si butta via è come se fosse rubato ai poveri e agli affamati. 消費主義は、私たちを浪費に慣れさせてしまいます。けれど、食べ物を捨てることは、貧しい人や飢えた人々から盗みとることと同じことです。


6月9日
Con la “cultura dello scarto”la vita umana non è più sentita come valore primario da rispettare e tutelare.  『捨てる文化』のために、人間の命・生活は尊敬され、守られるべき第一の価値として感じられなくなってしまいます。

Papa Francesco ‏@Pontifex_it


今の世の中、自分の特定の宗教を名言するのは、非常に勇気のいることだと思う。なぜならば、それをオタクのように見られたり、カルトのように取られる危険性もあるから。

超越的なものを認めない社会を「世俗化」された世界と呼んでいるが、自然的なものだけしか見ないと、人間がなぜ生まれたかが理解できなくなってしまうと思う。命の重さがわからなければ、人間の愛を理解するのもわからないのではないだろうか?

前教皇様が退位され、新しい教皇様が選ばれる間にナイジェリアのアリンゼ枢機卿様は非常に厳しい言葉を言われた。「・・・私たちの信仰は、教皇への信 仰ではなく、教会の土台であるキリストへの信仰なのです。・・・キリストは昨日も、今日も、そして永遠に変わることがありません。私たちはみなしもべであり、来ては去るものです。ですが、キリストは去ることなく、私
たちのもとにとどまり続けます。」また、「キリストなしでは教会はもはや意味を持ちません。ですが、教皇はしもべです。実際のところ、教皇の称号の一つは『しもべの中のしもべ』です。教皇は自分自身や、自分の栄光のためにいるのではありません。・・・』

先日、教皇様は、イタリア及びアルバニアのイエズス会系の学校の生徒たちへの特別謁見の中で、「なりたくなかった」発言をされた。信徒11億人のトップの重責と、バチカンが克服しなければならない諸課題を、十分認識されているからこその発言だと思う。

新教皇選出の過程を見つめ、そして、教皇フランチェスコのツィートをフォローするようになり、自分自身、そして生活、また信仰について改めて考えるようになった。特に、教会、共同体の中に存在する自分、そして自分が受けている恵みについて語ることがいかに大切か。

たかがツィッター。されどツィッター。
心を開き、素直に、透明な心で、あるがままの自分を見つめて生きていると、きっと見える存在よりも、見えない存在が心に触れられるはず。