「キリスト教徒であること、キリスト教徒として生きることを恐れてはなりません。出かけてゆき、復活したキリストを告げ知らせましょう。キリストこそ私たちの平和であり、キリストは愛と赦し、血と慈しみによって平和を実現して下さったからです。」
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「平和(シャローム)」は、ユダヤ人 のごく普通な挨拶だそうだが、上記「あなたがたに平和があるように」というメッセージには、それ以上の意味を込められているという。
平和、それは戦争がないというだけではないだろう。互いを恐れることなく生きることができ、赦すことができる、ということだという。人を赦せないほど苦しいものはない。それは、自分自身をも赦すことができないということで、それは罪の中の罪ということかもしれない。けれど、どんなに深い罪でも赦されるという。いや、赦していただけるのだと。「平和があるように」、それは赦しの実現であるとも・・・。
前々教皇のヨハネ・パウロ2世(以下JPII)は、1981年トルコ人のマフィアに銃撃され銃弾が2発命中し、重傷を負ったが 奇跡的に内臓の損傷を免れ、一命を取り留めた。事件後JPIIは人々に「私が赦した、私の兄弟(犯人)のために祈ってください」と語った。犯人は教皇暗殺未遂によりイタリアで19年間服役し、その間に、JPIIはイタリアの刑務所に収監されていた犯人に面会しており、しかも2000年には、JPIIの恩赦により釈放後、トルコに送還されている。それは、教皇だからなしえた行為なのか?カトリック信者は、「主の祈り」の「我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と祈りつつ、本当にそうできるのか?
また逆に、キリスト教徒として、生きることの大変さも痛感する。特に、同じ日本人に対して、「宗教」というだけで、壁を作られてしまうような気がするからだ。信者同士であっても、自分が正しいと思っていると、必ず人にぶつかる。ぶつかってくる人もいる。皆同じ神様を信じ、また同じ神様がいるはずなんだけど・・・また、心のもやもや・・・
信頼や愛を心で感じてください。目に見えるしるしで確かめようとするのではなく、素直に心を開いて相手の気持ちを感じる心、信じる心を育てましょうbyヴァレンタイン・デ・スーザ神父
まさに、昨日の福音のトマーゾと一緒。目に見えるものだけを信じるのではなく、心で感じ、信頼とゆだねる心が大切なのだと。
ミサ中の「平和の挨拶」の本当の意味を理解せず、挨拶していたことに反省。
シャローム!みなさんに平和を!!Pace a voi!!!
私たちは、赦す人にならなければいけない。赦しというのはあたらしい自分との関係。人を赦すことが自分自身をも生かす、生かされる。まさに赦しというのは命なのかもしれないと痛感。