

毎年、復活祭一週間前の『枝の主日』には、ミラノカトリック日本人会のミサが行われる。そして、毎年Stramilanoとぶつかる。
内環状線内にある修道院。考えてみれば、昨年は、夫に送ってもらったが,一本外側の環状線で下ろされて歩いていったような・・・。郊外からやってくる人たちも、迂回、迂回で遠回りはされるものの、たどりつけないわけじゃないし、ミサがあげられなかったことはない。とりあえず、前日、「Stramilanoのためご注意ください」という連絡だけはまわし、早めに家を出たが、予定外の雨は、想像以上に渋滞を巻き起こしていた。
当日になって、「子供の具合が悪い」「本人の体調が悪い」などという連絡が相次ぐ。「途中で車をおいて交通機関で行きます」という連絡も。私は現地に直接バザーの商品を持ってきてくれるという友人がいたが、急遽行きがけに直接彼女の家に商品を取りにいった。気がついたら、道路は封鎖されており、携帯電話は、お金がなくなっており,電話がかけられず。あちゃ~。私としたことが・・・今年もまた夫の車をおり、歩いて向かった。
マラソン団体が目の前を走っており、なかなか道路を渡れず。両手、両肩荷物と傘をもち、まずは修道院向かいのスーパーで携帯電話のリカリカード購入。お金をいれると、だーっとメッセージが入る。長男は、この雨の中、先週から野球のシーズンが始まり,しかも同じ日本人の選手が帰国中に、ピッチャーの座をとるぞ!と張り切って出かけたが、雨のため中止となった模様。
11時からのミサだったが、やはり雨とStramilanoのため,多くの人が遅れた。ミサの時間が遅れても、あわてないのは、さすがイタリア?!聖週間中に告解をしようと思っていたが、思いがけず時間がとれたので、司祭の下へ伺った。
ところで、告解とは、「ゆるしの秘蹟」といもいい、司祭のもとで、自分の犯した罪を告白し、罪のゆるしを願うことにより、神からの罪のゆるしが与えられるというしるしである。
先週の教皇フランチェスコの初アンジェラスでは、「たとえわたしたちの罪が緋のように赤くても、神の愛はそれを雪のように白くするでしょう」と言う、預言者イザヤの言葉を引用された。また、「主は赦すということに疲れを知りません。わたしたちのほうが、赦しを願うことに疲れてしまうのです。」とおっしゃった。
確かに、私達は,許しを請うのに疲れてしまいがち。いや、疲れる以前にその行為を躊躇しがちなのかもしれない。
ミサに与るたびに、「私は、思い、言葉、行い、怠りによってたびたび罪を犯しました」と唱えるが,実際この祈りを思い起こしつつ,①神に対し、②隣人に対し、そして③自分自身に対し,思い、言葉、行い、怠りによって神や隣人を悲しませていないか?自分の人生を粗末にしていないか?などと心の糾明を始めると、重く苦しくなってしまう。そして、結局は自分が弱いから、また同じことを繰り返しがち。それなのに、許しを請うことさえ、逃げがちで・・・
よくも悪くも、交通規制が幸いし、時間に制限されず、ゆっくり告解が出来、許しの秘蹟を頂く事ができ、非常に心が軽くなったのは、私一人ではなかったようだ。時間に集まっており、告解を受けた人たちの顔は明るく、小さな他人の言動にも、こだわらず、私もミサ、そしてその後の昼食会やバザーが終了するまでは、心配事が多かったが,思い煩うこともなく、喜びをもって過ごすことができ感謝。
ごミサでは、心の目を開き、目に見える世界の裏にあるものを感じられるように、福音を読んでみましょう、と朗読に入り, 沈黙と黙想により、お説教はなかった。一人ひとりが思いをめぐらせたひと時だったのではないだろうか?
ついに聖週間。心を込めて神を仰ぎ賛美と感謝を捧げる週となりますように。
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昨日雨の中、Stramilano(マラソン大会)が行われた。