3年前、心筋梗塞で生死の境をさまよい、病院の集中治療室で73歳の誕生日を迎えた。
「誕生日か・・・」しみじみと語っていたっけ。
無宗教の父だが、一般病棟に移り、談話室からキリストの本を持ってきて読んでいた姿を思い出す。
今は、たばこも、車の運転も止め、地道な生活を送っている。
人間は「死」に直面したり、「老い」を身近に感じる時、『生きること』を強く考えるのかもしれない。逆をいえば、充実していたり、忙しすぎていると、そのことを忘れがちなのかもしれない。
誰もが避けることの出来ない「死」に対し、どう立ち向かうのか。満たされた人生をおくるために、人生のいつかで「死学」をすすめるデーケン神父の本をたまたま読み返していた時に、ローマ法王の退位宣言があった。
昨日は法王の実質的最後のアンジェラス(ヴァチカンで教皇が正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに祈る「お告げの祈り」または「アレルヤの祈り」のこと)であったが、メッセージの最後の部分で、こう語られた。
『親愛なる兄弟姉妹の皆さん、人生のこの地点で、わたしは先ほどの神の言葉が特に自分へ向けられていると感じます。主はわたしに、自分を今までよりもっと祈りと黙想に捧げるという『山に登る』よう呼びかけておられます。しかし、それは教会を捨てるということではありません。実際、もし神がこうするよう招いておられるなら、それはわたしがこれまでと同じ忠実と愛を以って教会に奉仕できるようにするためです。ただし、わたしの年齢と体力にもっとふさわしいやり方でということです。おとめマリアの執り成しを願いましょう。祈りと愛の実践によって主イエスのあとについていくことができるよう、いつもお助け下さい。』
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私も人生の折り返し地点は、とっくに過ぎているはずだし、まだ子育てに追われていても、2,30歳代の時の体力も気力もない。けれど、きっと何かを失うということは、何かを得ることなのではないだろうか?今日より若くならない分、その年令と体力にふさわしい生き方というのは、あるはず。
曽野綾子女史が非常に辛口なことをおっしゃっていた。
>エステや形成美容に熱心な人は多いらしいけれど、精神に栄養を補給しない人は心が早々と萎びて来る。それを防ぐ心の美容について案外気にする人が少ないのは不思議である。
『精神の姿勢のいい人』を目指したい。
冬がきたら
冬のことだけ思おう
冬を遠ざけようとしたりしないで
むしろすすんで
冬のたましいにふれ
冬のいのちにふれよう
冬がきたら
冬だけが待つ
深さときびしさと
静けさを知ろう
冬はわたしに
いろいろのことを教えてくれる
先ず沈黙の大事なことを
すべての真理は
この沈黙のなかからのみ
生まれてくることを
それから自己試練の大切なことを
すべての事を成就するには
この不屈の魂によってのみ
成功することを
(『坂村真民全詩集 第二巻』 「冬がきたら」の一部)
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