『聖家族』の祝日 ~ 家族について考える | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

明日ははミラノ・アンブロジアーノ典礼では『聖家族』の祝日。


ローマ典礼では、クリスマスのあと12月30日に『聖家族』を祝うようだが、ここミラノ教区のアンブロジアーノ典礼だけは、エピファ二ア(御公現の祝日)後の第3主日になっており、今年はたまたま1月27日の「Shoah」(ユダヤ人大虐殺)の日とぶつかってしまった。

地元パロッキアでは朝のミサは省略され、11時15分に行われる。その前にあるフランス人会とのミサとは、今年は合同にならず、残念。合同で、朗読や祈り、賛美歌にフランス語をまぜても、ミサ後の分かち合いの食事までやってくるフランス人はいない。以前,日本人はChiusa(閉鎖的)だ、といわれたことがあるけれど、フランス人もかなりChiusa. その壁を破るため,私はどこにでも行くのにな・・・笑

この日のために、年明けから聖歌隊は練習を重ねて来た。けれど、なんど歌っても、ほとんどのイタリア人が耳で歌を覚えるので、おのおのが微妙に違う音、リズムで歌う。これって日本人からすると、非常に違和感がある。微妙な不協和音、微妙なリズムのずれ・・・どうも私の顔に、その不信感?が出るらしい。逆に、私が自信がなく歌っているように思われるのだろうか?笑 演歌調の賛美歌だけはやめてほしい。笑 それは、先日も聖歌隊指導者でもある、まだ若い新米ほやほやの神父が指摘していた。(ほら、言ったこっちゃない!)

入祭は、昨年の第7回世界家庭大会・Family 2012でも歌った「La Tua Famiglia」。思い出深い。

ところで、夫婦を基盤とする家族は、その夫婦のバックグラウンドによって、考え方も様々だろう。一応価値観があうからこそ、結婚をするのだろうが、生活し始めてから、見えてくるものが沢山ある。そこで、いかに妥協やら許しあいなどを通じ、人を成長させていくのか、考えさせられる。私も(まっそこは、お互い様だろうけれど)『死んだつもりで・・・』と自分をリセットさせたことも何度もある。だからこそ、今がある。

年始早々、夫が3週間近く出張中。以前は、夫が出張というと、すべて自分が抱えなくてはならない!という緊張感と孤独感に押しつぶされそうで,夫の帰宅と共に、気が緩み、寝込む・・・ということもよくあった。が、子供達も段々大きくなり(それに伴い問題も徐々に大きくなってきているが)、責任も徐々に彼らに分散させ、私も私なりに人生楽しもうという姿を見せるようにしてきている。一度長女に、ママは私達のために、自分を犠牲にしている、と感じるほうが重い!といわれたことがある。すごいね・・子供は見ているのだ!

やはり教育は耳よりも『目』からなのかもしれない。子どもたちは言われることより、むしろその生きている環境の中から学び取る。子どもは親の評価や批判を知らず知らずのうちに受け入れ、その家庭で親の価値観の基準が与える影響は、想像以上に大きいものなのかもしれない。

子どもたちが生きるうちに学ぶもの」

もしも、子どもが批判のうちに生きるなら、その子は非難することを学ぶ。
もしも、子どもが敵意のうちに生きるなら、その子は攻撃することを学ぶ。
もしも、子どもがあざけりのうちに生きるなら、その子は内気になることを学ぶ。
もしも、子どもが寛容のうちに生きるなら、その子は忍耐することを学ぶ。
もしも、子どもが激励のうちに生きるなら、その子は自信学ぶ。
もしも、子どもが敬意のうちに生きるなら、その子は人を大事にすることを学ぶ。
もしも、子どもが公正のうちに生きるなら、その子は正義を学ぶ。
もしも、子どもが保護のうちに生きるなら、その子は信頼することを学ぶ。
もしも、子どもが賞賛のうちに生きるなら、その子は自分を尊 重することを学ぶ。
もしも、子どもが受容と友情のうちに生きるなら、その子はこの世で愛を見いだすことを学ぶ。byノルティー:教育心理学者

親として、大人として、心に留めておきたい詩である。
 
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