ユダの木 ~ その2 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

今朝、長男の整形外科の検診があり、お蔭様でギプスもとれた。 
結局骨折はしていなかったことがわかった。なんだったんだろうな・・この2週間。 

野球をやっている、というと、日本は強いんだよね。あれっこの(病院)裏のKennedy(球場の名前)でやっているのかい?今度は病院までボールを投げてごらん、などと担当医師はおっしゃった。「何かあれば、またここで会いましょう。そうでなければ、さようなら。」「はい、なるべくお会いしませんように。」といってこちらも笑った。 

十日ほど様子をみて、普通に運動も始めてください、とのこと。ギブスをしてても、平気でサッカーや野球をして遊んでいたのだから、来週からはしっかり練習に通ってもらうよ! 

帰りがけに、病院内のチャペルは見られないのか?と思ったら、鍵が閉まっていた。平日は夕方のミサのみ、とあった。教会入り口には、前回紹介した「ユダの木」がなんとあるではないの!! 

教会の前に「ユダの木」。なんか微妙だな・・・ 

イエス・キリストの弟子だったユダは理想が高かったんだと思う。理想が高かっただけに、師とあおぐイエス・キリストは奇跡をおこさず、ただ人とともに泣く人だった・・・結局師をお金で売ってしまった自分にまた幻滅し・・・自殺。誰もが弱い人間。やっぱりプライドが高かったんだろうなあ。  


いきどおりながらも 
美しい私であろうよ 
哭きながら 哭きながら 
うつくしいわたしであろうよ (by八木重吉) 


美しい自分であろう、というのはある意味、高い理想をもつことであるし、プライドでもあるけれど、上記ユダのとは、人の気持ちをくむ心や、優しさ、そして従順さは感じられない。 

私は上記の詩は、この1節しか知らなかったが、調べてみると、やはり優しさに満ちたものだった。 


「愛」  八木 重吉 
   
うつくしいこころがある 
恐れなき心がある 
とかす力である 
そだてる 
ふしぎである 

いきどおりながらも 
美しいわたしであろうよ 
哭きながら 
哭きながら 
うつくしいわたしであろうよ 

私にできない善い事を 
他の人がしたのを見ればうれしい 

愛は世界の共有である 
神の栄えのために輝く 
私がしたのでも他人がしたのでも 
うまれた愛には持ち主は無い 


ユダの木をみたら、優しくなることを意識しよう。