「(主の)受難日」、「受苦日」などとも呼ばれるそう。
数年前、この時期ドイツに出かけたときは、ドイツでは聖金曜日は祝日だった。
カトリック教会では聖金曜日には断食を行う習慣がある。断食といっても完全な絶食ではなく、1日に1回十分な食事を摂り、あとの2食は少ない量に抑えることができ、主に肉をさける。でもスーパーの肉売り場やお肉屋さんの前を通ると、皆普通にお肉を買ってましたね。笑 我が家は、「明日はお肉は食べないから、今日食べておいて!!」といい、昨夜洗足式から戻り、夜の9時近くに、サルシッチャを焼いて食べさせた。笑 「え~こんだけ~?!」やっぱり食べ盛りの長男からブーイング。それでも、僕は告解をしなければいけないから、聖体はもらえない、といって昨日は拝領していない。偉い!!今日は、信者ではない夫には申し訳ないが、すいとん。父の田舎(岩手県)ではひっつみといってたな。
さて、聖金曜日の詳細はこちら。http://
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聖なる三日間は、一日の境目が日没時という当事のユダヤ暦の考えに従って区切られているので、キリストが亡くなられたという3時頃に行われる「主の受難」の祭儀は本来一日目に入る。
3時から始まり、ことばの典礼として、イザヤ書朗読。
その後、「主の受難」として、ローマ典礼ではヨハネの福音書を朗読するが、ここミラノでは、アンブロジアーノ典礼なのでマタイによる福音書27章1-56節と決まっている。
主が息を引き取るところが、丁度午後3時27,8分に当たるだろうか。そこで皆、ひざまづき、お御堂の明かりも消え、同時に鐘がなり始める。そして、祭壇の布がすべて取りはがされた。
その後、主任司祭による簡単な説教があったが、なぜ<perchè >キリストは死ななければならなかったのだろうか? <per/che>何の/ため?けれど、一字変われば、誰の/為 <per/chi>?となる。私たちは人の為に命を捨てる事ができるだろうか?日本にも宣教に行き、その後アウシュビッツで人の身代わりになり亡くなったコルベ神父のことを思い出した。La bellezza è la forza dell'umanità. 「美しさは人類の強さ」だと説教が締めくくられた。
続き、十字架の崇敬。(ローマ典礼では、ここで共同祈願)
この日は、聖体拝領は行われないが、行列になって一人ずつ横におろされた十字架上のイエスをあがめた。以前、そんなことをした記憶は無かったが、今日はイエス像の直前で3度ひざまずくようにいわれ、それぞれイエス像にキスしたが、やはりまだまだ抵抗感があり、自分の指先に口をつけ、足の釘の部分や、胸のきずに触れた。すると、なぜか自然に涙がこぼれてきたのには自分でも驚いた。自分の席に戻りひざまづき、ただひたすら神に感謝だった。
そして、共同祈願。全教会、全人類(ユダヤ教の人々の為、キリストを信じない人、また神を信じない人、国を治める人々や困難に直面する人々、そして死者)の為にも祈った。
また今日、全世界の教会から集められた献金は、イスラエル、ヨルダン、キプロス、パレスチナ自治区内にある数多くの巡礼所、聖堂などの維持管理や、聖地の貧しい人々のためなどに使われるという。
ちなみに、今晩8時半からローマのコロッセオではべネディクト16世による「十字架の道行き」が行われ、Rai Vaticanoでは、生放送。Rai 1では、9時10分から放送予定。
こちらはそのしおり。http://
いよいよ明日は復活前夜祭。皆さんの上に神様の祝福が豊かにありますように。