新約聖書(マタイ福音書21章1~11節)によれば、キリストが十字架につけられるためにエルサレムに入城する際、群集が枝を持って迎えたという。教会はこの出来事を復活へ向かうキリストの受難の始まりとして記念される。
その日は毎年、どこの教会でも司祭によって聖別されたオリーブの枝をもらうことができ、その束を持ち歩く人々をたくさん見かける。
そして毎年、『枝の主日』に、ミラノ・カトリック日本人会は、お祝いをする。(皆、自分の教会を持っているため、復活祭は、そちらに出かけてしまうため)
今年は、日本人会を置いている幼き聖マリア修道会の方で、綺麗に袋詰めのオリーブの枝を準備してくださっていた。

群集が手にした枝には、歓びと祝いの意味があるというが、これはユダヤ教の「仮庵祭」と関連があると考えられるが、ここでは割愛。
この枝は、持ち帰り、家に飾り、この日を記憶するようにするといわれる。そして、翌年の四旬節前に燃やされ、「灰の水曜日」(四旬節初日、カルネヴァーレ終了の翌日)のミサの中でキリスト信者たちの頭にかけられる。
今日の司式のトレヴィーゾ出身の神父様によると、神父様の御実家では、自然災害など、なにか惨禍、災いが起きるとき、家に飾っているオリーブの枝を折っては、それを燃やして灰にした、とおっしゃっていた。
我が家では、オリーブの枝を飾っていても、段々乾燥してきて、葉が落ちようものなら、知らないうちに踏み潰してしまい、それが粉々になってしまうことも度々あり、悲惨な目にあうが、こうやってコンパクトにしていただくと、このまま飾れてありがたいかも。笑 表面には、イエス・キリスト像と聖書・パオロによる書簡「ローマの信徒への手紙」の「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。」と書かれてある。あくまでも、キリストの肖像側ではなく、オリーブを見せるように飾ってください、とのことだった。そうか・・・目からうろこ。
今日の福音は受難の描写(マルコ15:1-39)部分。
説教の中で、なぜ、神は人間と同じ姿となりましたか?
なぜ、神はこれほどの愛で人間を愛したのでしょうか?
十字架の中に、神の愛、偉大さが見えますか?・・・などと問いを投げられる。
私は, 会報を書かなくてはならないので、説教のメモをとるが、そのうち、自分で考え始めてしまうと、段々自分の世界に入り込んでしまい、仕舞いには神父様の問いなのか、自分の問いなのか分からなくなってしまうことがある。笑
ヴァレンタイン・デ・スーザ神父によると、十字架は神と人との関係を暗示しているという。すなわち、神と人との関係を縦の関係とするなら、人と人との関係は横の関係となる。神様を愛しながら、人を忘れ、隣人を愛しながら神様を忘れるなら意味はない。神と出会い、人と出会う中に十字架が生まれ、人は神の道を歩み始める・・・。
自分にとって、「十字架の道」、というのが、ちょっと違った思いで捕らえられたような気がした。
朝から、ミサ、食事会にチャリティ・バザーがあり、福島プロジェクトのOrto dei Sogniの代表の方をお招きして会の詳細などをお話していただいた。バザーの方も盛況で、そのまま場所を移動してチャリティ・イベントとしての子供のコーラスがあったので、そこでもイベントの寄付先であるOrtoの方へ直接寄付させていただいた。私たちの働きは、 大海の一滴の水にすぎないかもしれない。 けれど、大きな海も、一滴 の水なしには 大海にならないわけで、こういったささやかな祈り、活動がプロジェクトの一部としてつながることを喜ばしく思う。透明な心でする行為は、体は疲れても心は疲れない。
復活祭に向け、祈りと喜び、感謝も頂点に達しますように。
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