究極の選択 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで30年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

去る2月20日は『世界社会正義の日』だった。 (2008(平成20)年の国連総会で制定。2009(平成21)年から実施。) 

そんな日に、山口県光市の母子殺害事件の結審で加害者は「死刑」の判決。『社会正義が示された』というが、なんと皮肉なことか。所業のむごさは死をもって償うほかない、との判断であるというが、疑問だ 。 

妻子を奪われた本村さんは、自殺の願望を振り切り、悲憤を糧に「被害者の権利」を世に問い続けた。独りで始めた闘いは、同情や共感だけでなく、重罪に厳罰を求める世論を揺り起こした。 

たしか、アメリカではわが子を殺された父親が、加害者の裁判で、退出する加害者を銃殺するという事件が起きた事がある。そのまま父親は自殺したのか、自殺を図ったところを抑えられたのかは記憶は定かではないが、又似たような内容の映画もあった。 

死刑制度に関しては、そう簡単には語ってはならないと思うが、受刑者の社会的存在を抹殺するというのは、どうなのだろう。大抵は殺人などを犯した凶悪犯に課せられるが、「死」に対し、「死」でもって、蓋をするだけでよいのだろうか。国民の生命を守るためにある近代国家が、法の名において一命を奪う。矛盾だと思うのは私だけだろうか。 

ところで、2006年にイタリア北部コモ県のエルバという町で妻・娘、孫、そして近所の人が、やはり近所の人に殺されるという「エルバ殺人事件」があった。原因は、騒音ということだったらしいが、3人を殺害し家に火を放った。その後、近所の人を殺害、その御主人を重症に負わせた。しばらくたって被害者の夫であり、父、そして祖父であったカスターニャ氏が、犯人を赦すと声明をだし、世論を騒がした。(ちなみに最終判決は昨年5月終身刑となった)。 

カスターニャ氏は熱心なカトリック信者だったそうだが、キリスト教の教えの頂点はやはり人を「赦す」ことではないだろうか。「敵を愛す」、「隣人愛」とはいうものの、だれでもができることではない。 

加害者に、憎しみよりも哀れみを持つようにしたことが、赦しの第一歩であったと彼はいう。加害者の身内が羞恥心やら罪の意識にさいなまれながら一生を過ごすことを思えば、被害者であった方がいいともいった。けれど加害者の身内も、ある意味被害者でもある。そうなってしまうと、もう抜け出しがたいトンネルに入ってしまうのだろうか。 

「赦すこと」は私に、悲しみでもない、怨念でもない、そして復讐でもない形の苦しみと共に生きる手助けとなっている。苦しむ事は、隣人を愛し、喜びを見出すためのポジティブなものだ、とカスターニャ氏。 

そうなると、人間の中には、苦しみの中で他人を呪い、恨む自由を持ち、逆に苦しみの中でも相手を思いやる自由、微笑みがたい条件のもとでも、微笑む自由を持っているということか。「自由」とは字のごとく、「自らに由る」もの。置かれた条件は同様でも、その条件にどう対処するかの自己決定権を保有している。それは決して多数決で決められるものではないだろう。大事なのは「どう対処するか、何を選ぶか」究極の選択だ。 

ドラマ「それでも、生きてゆく」は、悲劇を背負い、時の止まっていた家族が、明日への希望を見いだそうと懸命に生きる姿を描いていたが、どんなにつらく、悲しいことがあっても、それでも生きてゆく。その家族の姿に毎回心が震えるものがあった。 

すべての苦しみの根源は無条件に、無制限に 
人を赦すという、その一年が消え失せたことだ (by八木重吉) 


今日は「灰の水曜日」。(ミラノは日曜日だけれど) 
「あなたは塵であり、塵に帰るのです」。 
罪の赦しと新しい命。つまり復活。 
社会正義から究極のテーマになってしまった。笑 


http://milano.corriere.it/milano/notizie/cronaca/11_maggio_3/strage-erba-marzouk-ricusa-avvocato-190560343331.shtml 

http://www.ilsussidiario.net/News/Storia-della-Settimana/2010/4/2/LA-STORIA-Castagna-strage-di-Erba-solo-la-Pasqua-mi-ha-permesso-di-perdonare-Olindo-e-Rosa/76810/ 

http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/downloads/pr09-9message.pdf#search='世界社会正義の日'