「世界コミュニケーションの日」に向けたメッセージ。法王は「答えを探す多くの人」が検索エンジンやソーシャル・ネットワークを多用していることを指摘。「途切れることのない問いは、人々の落ち着かなさを表している。うわべだけの意見交換では人々は安らげない」とくぎを刺した。
その上で「神は沈黙の中で語られる」「愛し合っている者同士は、黙っていても顔の表情やしぐさで互いを理解できる」と、言葉を介さないコミュニケーションの大切さを説いた。http://
確かに、日常生活の中で、自分を見つめる静かな時間を持つことは大切なこと。
走りすぎると、籠の中を走り続けるハムスター同様になってしまう。一休みして、心を静めると、いろいろなものが見えてくる。人の表情、わき道に咲く、小さな花、静かな海に立つさざ波、射してくる光、映る雲・・・、ふだん気付かない細かいことに気が付くことができる。
毎朝、子供を学校に送った足で、教会に寄ると、ミサに与る人とは別に、やはり子供を送ったまま教会によってから、仕事に出かける人たちがいる。マリア像の前で祈っていたり、ただ座ってじっと頭をさげていたり、と様々。意外にお父さんたちが多いのには、驚いた。
人は常に、何かを求めているのだと思う。けれど、実生活は忙しすぎて、それが観察しづらく、ネットに求めてしまうのだろうか。私は発信する事によって、頭にあるものを整理できると考えていたけれど、それだけでは、人とは理解しあえないということか。
とはいえ、私が家から出なくなって、発信しなくなる時は、何かが起きた時なのかもしれない。笑
沈黙を保つことは、孤独に陥ることではありません。
沈黙を保つことは、自分自身と向かい合うことです。
沈黙を保つことは、神様と出会うことでもあります。
沈黙の中でなら、私たちは自分を見つめ、神を見出すことができます。
沈黙の中でなら、私たちは神が自分に語りかけているのを感じることができます。
沈黙の中でなら、私たちは神に語りかけることができます。
その語り合いは、祈りとなるのです。
祈るためにまず必要なのは、沈黙です。
祈る人とは、沈黙の人と言ってよいでしょう。「マザー・テレサ愛の花束」より
一日の終わりに「今日、私は神さまの道具になっていたか。恵みを運ぶことができたか」と反省する習慣を持つのが必要なのかもしれない。