ITAMAの子供達 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

木曜日の午後になると、あと一日頑張れば今週も乗り切れる~っと心持軽くなる。金曜日の午前中はITAMA。体力的にはかなりエネルギーを消耗され、帰宅時は朦朧としてしまうが、あとからじわじわまたエネルギーがわいてくる泉のよう。ある年齢までの子供は本当に無垢な存在で、存在そのものだけで、人に喜びを与えてくれる、そんな気がする。それがいつからか、文句をいい、親をこきつかう存在になってしまうんだな。笑 

さてさて、今月半ばから始まったITAMA。http://ameblo.jp/sofiamilano/entry-11048777734.html 本来ならば金曜日の一日しか私は出席していないのだけれど、今年は子供達が全員入れ替えになり、シッター要員も新たに加わった事で、何がどうなるのかわからず。しかも今年は、日本人よりも手がかかるアラブ人の子供達が多く、言葉の問題やらでどうしていこうか様子を見ていたが、結局水曜日にある聖書研究の会はずっと休みっぱなし。ずっとやりたかった『パオロの書簡』に入ったんだけど、まっ仕方ないか。 

今回1歳と2歳の兄弟のエジプト人が入ってきた。母親から勉強している間、お友達と遊んで待っているようにと予め説明はあったのだろうか。いずれにしても、母親とは多分今まで一度も離れて留守番をしたことがないのだろう。もうこの世の終わりのように、泣 いて泣いてそれだけで、大人二人がつききりになってしまう。先日水曜日、本来4人シッターのところ、大丈夫かな・・・と思い書類を届けにいったついでに結局そのまま居残った。大泣きするお兄ちゃんと同じ高さになってなだめていたら、急に私のひざをつかみ出したので、抱っこなのだろうか?と一瞬考えた隙にいきなり私のひざを噛み付いてきた。うお~~っ!!自分の子だったら、ぱ~んっ頭を叩いた事だろうが、そうも行かない。ヒートテックとジーンズはいててよかった~。笑 なんと合計3回もかみつかれたのだからたまらない。あざになった?と回りに聞かれたが、さすがにそんなことはなかったが、よだれでびちょびちょ・・・爆 

問題があって、幼稚園にいけない4歳のモ ロッコ人女児。逆に、イタリア語が出来なくても、物心がつきすぎちゃって親から離れられず。もうどうしようもなく、アラブ人の中年女性に来てもらってずっと寄り添ってもらっていたようだが、どうしても母親の近くで無いとだめだった様子。おせっかいながらITAMAのメンバーが彼女が申し込んだという幼稚園の状況を聞きにいったが、ポストがなくずっとウェイティングなのだそうだ。出来る限りのところまで見捨てず、彼女を見ていこうとなったが、そうでなくてもシッターが足りない。上記エジプト人お兄ちゃんは隙を見ては直ぐに教室を脱走してしまうから大変。壁は叩くし、おもちゃは投げ捨てる。他の子供にぶつけてはいけない。大人がずっと壁状態になる。 

初日から問題のなかっ たエジプト人も、このお兄ちゃん(通称ブーディ)につられ泣くようになった。どうしようもなく、母親にきてもらい廊下でなだめてもらうと落ち着くのだが、じゃあまた教室へいれさせようとしようものなら、さあ大変。水曜日は教室には戻ってこなかった。 

それ以外の子供達は嘘のように、平静で黙々とあそぶ。 
と思うと、急にいきなり厚さ30センチくらいのマットレスの上で子供達が固まってジャンプするのだが、落ちてはたまらない。Seduto!(座りなさい) Seduto!と言っても伝わらない。アラブ人には仕方なく、イタリア語で言うが、日本人には、日本語でなんていうの?というので、とっさに『お座り!』といってしまったが、犬じゃないんだよな・・・・苦笑 1歳以下の子供は4人。はいはいで徘徊する。うわっマットレスから落ちそうな子を走って助けに行くと、足元にはいはいの赤ちゃんが。自分が転んでどうする?!教室では、子供にはもちろん、シッターにも保険がかけられている。 

おやつの時間はクラッカーとお水。でも、それも楽しいひと時。皆が小さなテーブルを囲んで座る。エスプレッソ用の小さなプラスチックのカップに水を入れるのだが、入れた先からこぼされる。とほほ・・・

昨日のITAMAではブディが2時間泣き叫ぶのは、変わらなかったが、自分から逃げ出す事はなかったし、私を噛み付く事もなかった。まあ自分の手のひらをかんでいたかな。妹ラーフはすっかりおちついた。先日教室に戻ってこなかったアフィフィも最初は半狂乱で教室に無理やり入れられてきたが、しばらくしてからやっと落ち着いて笑顔になった。そうなると、こちらも安心する。 

1,2歳の子供達は、まだ母国語もままならない子が多く、私たちの事をどう呼んでいいのかわからないのだろう。イタリア語ではEducatorice・エドゥカトリーチェと呼ばれているが、決して教育者ではない。『先生』と呼んでいる日本人の保護者もいらっしゃるが、それはあまりにもそぐわない。『お姉さん』と呼ぶ友人ママもいるが、それはいくらなんでもずーずーしい。爆 『おばちゃん』?そりゃあやめてよ。かといってシッター全員の名前を子供達が覚えるのも大変だろう。全員で6,7人いるのだから。 

そうしたら、昨日数人私のことを『ママー』と呼ぶから驚いちゃった。日本人だけではなく、スーダン人の子供もそうだった?へっ???他のシッターにもそう呼んでいた。私たちはママの代わりの「ママ」なんだ!子供達が私たちに信頼の念を示してくれているのが、わかる。3ヶ月の赤ちゃんも目があうと、「うー」とか「あー」といって声を掛けてきて、それに反応してあげると、ずっとおしゃべりが始まる。自分の子供もそうだった。この会話が出来るとき、信頼関係を感じる。無垢の子供に抱っこして~、こっちへおいで~と示されるとき、自分を受け入れてもらった。という自信につながるのだ。だから、どんなに疲れてもまた力が湧いてくるのかもしれない。 

けれど、自分の子供は・・・感情移入が大きすぎるのだろうと思う。期待が多すぎるのだと。 

そこで、ジブランの詩の『あなたの子供』を思い出した。 
http://ameblo.jp/sofiamilano/day-20110301.html 

あなたの子供はあなたのものではない。彼らは命そのもの憧れの息子と娘である。 

彼らはあなたと共にあるけれどあなたの所有物ではない。 

あなたは彼らに愛情を与えるが、あなたの考えを与えることは出来ない。なぜなら彼らは自分自身の考えを持っているから。 

あなたは彼らの身体を宿すことは出来るが彼らの魂を宿すことはできない。なぜなら彼らの魂は明日の家に住んでおり、あなたはその家を夢にさえおとずれられないから。 

あなたは彼らのようになろうとつとめるが、彼らに自分のようにならせようとしてはならない。何故なら、人生はあともどりもしなければ、昨日とともにためらいもしないから。・・・ 

自分の子供とはいえ、神様からの預かりもの。と思ったほうが良いのかな。 

よそ様のお子さんに触れ、ふと自分の状況を振り返る。 
「今度こそはもっと良い親になろう」と思うのだ。 
いつも穏やかな広い心を与えてください。 
子供と一緒に成長させてください、と祈るばかり。