Contro la fame, cambIO la vita
ミラノ外国宣教会の今年のテーマである。
「空腹に対して、変わる(私の)人生」とでもいおうか。
空腹(Fame)とは、必ずしも、飢えや食料の欠乏だけではなく、心の貧しさや、内容がなく、必要なものを充分に備えていないことにも相当するのではないだろうか。そして、Cambiareは動詞、「変える、変化する」という意味もあるが、CambIO というのは、第一人称単数形。IO「私」という語を協調し、「空腹、心の貧しさを通して、自分が変わる」というさらっというには簡単だが、かなり意味の深い行いのことを言っていると思う。
まず、ここで思いついたのは、3月の日本の震災。
日本をはじめ、世界の誰もが心を痛め、日本に心を寄せたと思う。
でもその寄せ方、形もさまざまである。私も『私達にできる事』としていろいろな事を考え、ここミラノでも、沢山のチャリティが行われてきた。お金もそれなりに集めて送金した。日本の団体にお金が届いた確認もした。・・・が実際どのように使われているのだろう?実際、被災者の人々にはどのように変化が起きているのだろう。
>ある方のブログを拝見し、どきっとした。
無償の善意(ボランティア)に支配されて、私たち(被災者)の出る幕がありません。
復興作業ならボランティアではなく、自給600円でもいいから地元の失業者を使ってほしい。
http://kasakoblog.exblog.jp/15291070/
この時、改めてボランティアのあり方、というものを考えさせられる。
復興とは・・・東北は復興できても、人々は復興できるのだろうか。
国際協力事業機構の海外青年協力隊(JICAボランティア)などは、開発途上国の経済・社会の発展、復興へ寄与しているが、これは、すべてを与えてあげるのではなく、知識や技術の援助、人材育成、制作制度改善など、総合的な彼らの発展に貢献し、可能な限り支援していく・・・というのが、目標であり、そう実施されているはずだが、そうなると、ボランティアは相手に対し、「自立」、「社会参加」を促すものでもある、と考えられるだろうか。
>被災者が今、望んでいることをボランティアがしているのか?
支援するならまず被災者の声に耳を傾けてからではないか?
ボランティアの存在がかえって被災地の自立支援を阻害していないか?
ボランティアという名の善意の押し売りによる、
単なる自己満足になっていないだろうか?
「がんばろう日本」の連呼も、なかなか被災者の生活再建につながらない・・・、必要なのは綺麗な言葉でなく、正義でもなく、心の支えなんじゃないだろうか。
この1年やっているITAMAのボランティアに関しては、『与える事で与えられる』という相互作用を感じられる。けれど、震災後に自分が考えた事、行った事は、どうなのだろう。自分にどう影響が出ているだろうか。
話は、元に基、昨日9月9日より、ミラノ教区に、新しい大司教(アンジェロ・スコラ枢機卿)が誕生した。新学期同様、教会も新年度を迎えた。どこの教会も今月大きな催し物をするが、上記PIME(特にアジアの非キリスト教国を中心に宣教に奉仕しているカトリックの会)は、来週9月18日、代表者会議やミサを始め、これから海外に宣教にでる司祭、及びシスター、一般の方の壮行会などが行われる。
その片隅で、日本人として、震災後の日本の変化や状況(あまり具体的な情報が入らない分、非常にまとめるのに苦労しているが)として、支援活動の一部や一般の企業でもいかに現地と関わっているか、というものをパネルにして紹介し、祈りをこめて千羽鶴をイタリア人に指導し、皆で折りたいと思っている。(9月18日 12時位から、PIME MILANO, Via Mosè Bianchi, 95 Milano)
遠く離れている方々ともいかに関われるか。
直接、伝わる事がなくても祈りの内に一致する。笑顔の伝播・・・。
私たちのすることは
大会のたった一滴の水に
すぎないかもしれません。
でも
その一滴の水が集まって
大会となるのです。
愛のために働けば
それはそのまま平和のために
働いたことになります。
マザー・テレサ
http://www.pimemilano.com/index.php?l=it&idn=1&idnews=1226&onlpg=5